2016年12月31日

酷いことをされると嬉しいわけ

殴られる、とか、酷い扱いを受けたり、受けるのを想像したりすると、「嬉しい」と感じる時がある。かなり。

自分はマゾヒストなのか、と愕然とするけど、これは皆がそうなんじゃないだろうか。

酷いことを言われたりされたりすると、「(自分に)ふさわしい扱いを受けている」という感じがして、嬉しくなってしまう。

「みんな」「社会」という大きな構造の中で、自分が歯車にされている。
奴隷であっても。サンドバッグであっても。ゴミ箱であっても。トイレであっても。

「役割」を与えてもらっている、というだけで、嬉しい、と感じる。
大きなものの中に、自分が小さな部品となってぴったりと嵌め込まれている、という感覚は、自由とはほど遠いのに、気持ちがいい。
安心する。
奴隷の安心感だ。

部品をやり続けるかぎり、ゴミ箱をやり続けるかぎり、殺されなくてすむからだ。

ゴミ箱という、サンドバッグという「使い道」があれば、存在することを許してもらえる。
そう感じて、嬉しくなるのだ。

幸せになることよりも、「生き残る」ことが優先される。
私は、人間は、生き物だからだ。

私は、あの家で、ゴミ箱をやり続けるしかなかった。サンドバッグとしてなら、縦横無尽に「使ってもらえた」。

生き残れることに喜びを感じても、幸せじゃないことに気づくのは絶対に嫌だった。
自分が奴隷だなんて、認めたくなかった。

でも、奴隷である現実を認めないと、奴隷をやめることはできない。
嫌なことをやめるには、自分が嫌なことをしているという現実を、直視しなきゃいけない。

女のひとは、皆、この日本では性奴隷だと思う。

男の人も、自分の肉体を労働に供与する、労働の、暴力の奴隷なのかもしれない。

私は、「女」になんか生まれたくなかったよ。

「男」になんかも、生まれたくない。


役割を、生まれる前に、
生まれた後にも、他人の手で勝手に決められたくないんだ。

役割を押し付けるな!

私は、役割を、ゆっくりと脱ぎ捨てていきたい。
まだ、親達に奴隷調教されたままだから。

調教された私の性を、癒して、守って、自由な私にかえしたいんだ。

ゆっくりとでいい。私は今も、奴隷だ。奴隷を、お母さんに言われたとおりに、お父さんに言われたとおりに、一生懸命演ろうとしているんだ。心の、体の根っこが。

私は、奴隷を、ゆっくりと辞めていきたい。

ゆっくりと。少しずつ、少しずつ。微々たるものでも、

私の歩調で、
ゆっくりと奴隷意識を脱ぎ棄てていきたいんだ。


posted by ひろみ at 15:54| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする