2017年02月25日

「わたし」は、「わたし達」なのかもしれない



最初は一つだった細胞が、分裂に分裂を繰り返して何億個と増えたとき、「胎児」になる。
一つの細胞では、「人間」と呼ばれない。(生命倫理の世界では、論議がある。)

一個の脳細胞では、多分いまの私の意識はうまれないだろう。

脳細胞がいっぱいあって、いまのわたしという意識が在る。

「わたし」をかたちづくる細胞は、複数形なのだ。


じゃあ、「わたし」という意識は、実際は「わたし達」なんじゃないだろうか。


多重人格とか言われている「症状」の人たちは、単にその仕切りがほかの「普通」の人たちよりも、
クッキリしているだけなんじゃないだろうか。

「〇〇なキャラ」という使い方で定着した「キャラ」という言葉も、みんな、一人ひとりがそれぞれに抱えている、「わたし達」のうちの1人を指すのだろう。

その「キャラ」がステレオタイプ化されていることは、どう捉えればいいんだろう。


わたしは、わたし達である。

そのわたし達のうちの1人に、つらいものを、苦しいものを、負わせて押し付けてしまいながらここまで生きてきた。

いま、私は、必死で無視してきたその存在たちと、会話をしている。
ごめんね。つらかったね。助けてあげられなくて、ごめんね。助けてあげたかったよ。ほんとうに、つらかったね。怖かったね。苦しかったね。悔しかったね。助けて、あげたかったんだよ。でもできなかった

そうしているうち、それを続けているうち、少しずつ「わたし達」と話せるようになった。
わたし達は、一人ひとり、この「わたし達」を守るために、分節化しながら、それぞれの役割を負いながら、なんとかわたし達を生かそうと、生き残らせようと、いっしょに生きてきていた。

メインに表に浮かんでくる「わたし」は、その時々によってちがう。
分節化してるときもあるし、ぼんやりと、渾然一体に「わたし」を成しているときもある。

ひとつにもなるし、分節化もする。

いずれにしろ、1人でも多くの「わたし達」が、それぞれみんな楽に、しあわせに、生きられるようにしていきたい。
一部の「わたし達」だけじゃなくて、忘れられた、置き去りにされた、ずっと無視されてきた「わたし達」と、これから、少しずつでいいから、ちゃんと、向き合って生きていきたい。

いままで、無視してきて、ごめん。あなたがいることを、認める。あなたの気持ちを、話してほしい。
無視してきた立場で、虫がいいかもしれないけど。
これからは、少しずつ、前に出てきてほしいんだ。

その邪魔をすることは、もう、
これからは、やめるように気をつけるから。


「わたし達」が、前に出ることを、邪魔するのは、やめよう。



「わたし達」の、気持ちを聞こう。



そして、ゆっくりでいいから、寄り添っていこう。






posted by ひろみ at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする