2017年03月05日

もしも現代に仇討ち制度があったなら



現代に仇討ち制度があったなら、
私の魂を殺した親たちと、兄を殺しにいくだろう。


海外ドラマの『デクスター』と『ハンニバル』は、
ある種の傷を癒す最も効果的な方法は、相手を殺すことだという、真実を正面から暴いている、傑作だ。
みんなが目を逸らしつづけている、真実を。


わたしは、わたしの魂を殺した家族を、殺す。
ころす。


それが法制度上許されないのなら、

私のこころのなかの家族を、

フィクションの世界における殺しを、

おこなういがい無いではないか。


こころのなかで、より凄惨に、より克明に、より破壊的な徹底的な方法で、
ありありとした手応えと、現実的な肉体の壊れ方を、持ちうるかぎりの想像力で、想像する。
まだ貧困だ。
まだ、イメージが足りない。


こういうとき、フィクションは偉大だ。


ひとは、想像力を、軽んじないほうがいい。
想像力こそ、最後のいのちづなじゃないか。

想像力を笑う者も、フィクションを貶める者も、
自分で自分自身のちからを縛っていることに、気づいていない。

こころのなかで力を蓄える者の、無から有を生み出す、偉大な生命力を、恐れている。
それを使っちゃ、いけないと思っている。

たぶん、こころのなかの「誰か」を恐れているんだろう。
その「誰か」に、こころのなかまで監視されていると思っている。

それは間違いだ。

誰も、なんぴとたりとも、私たちのこころのなかを覗ける人はいない。
自分のなかの、神さま以外は。


こころのなかで家族を殺しているひとは、自分じしんを咎めないであげてほしい。
私たちは、最も力強い、自由な、他害せぬ、そして自分をなにより活き活きと生かす、
尊い勇敢さを奮いたたせて戦っているのだ。


けだかいことだ。

すばらしいことだ。

私たちのこころのなかの家族を殺すことは、最も優しい、いのちを尊ぶ、奴隷の鎖を搔き切るおこないだ。


私は、あなたは、怪物なんかじゃない。


⋯あるいは、怪物に、なってもいいかもしれない。


じぶんじしんの味方になる。なによりもじぶんじしんを大切にする、優しい優しい愛のおこないを、

ほめてあげよう。
偉いぞ、よくやったね。よくぞあの忌まわしいおぞましい人間を、徹底的に、殺し切ってくれたね。

わたし達のために戦ってくれて、ありがとう。

やったね!また、殺ろうね。あの震え上がるような恍惚の感じを、いっぱいいっぱい味わおう。
あの快楽を、なんどもなんども味わおう。
ほんとうに、気持ちよかったなあ。



そうするとだいたい、温かい涙が溢れ出している。



posted by ひろみ at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする