2017年04月25日

「子供が自分よりも不幸でいないと、幸せと感じられない」人たち。それがお父さんとお母さんだ。




お父さんとお母さんは、「子供が自分よりも不幸でいないと、幸せと感じられない」人たちなんだ。


なんでかわかんないけど、そう思う。

子供限定なのか?
そうは限らないと思う。
とにかく、「自分よりも不幸だ」と思える人が増えれば増えるほど、「嬉しい」と感じる人たちなんだ。

ただ、それが「子供」だと、さらに違う。


「子供」だけは、何があっても、絶対に自分よりも幸せにならないで欲しい。
なってはならない。絶対に、許さない。

子供が、自分よりも幸せになったら、死ぬ。

子供だけは、何があっても、自分よりも、不幸せでいるべきである。
自分よりも幸せになる子供は、生きていく資格がない。
自分よりも幸せになる子供は、死ね。


そんなところだろう。あの人たちの心底は。



お母さんとお父さんは、同じことを、自分の「お母さんとお父さん」に要求されていたんだろう。
私の「祖父」と「祖母」に。

そうして、それを守った。
今も守っている。きっと。


自分がさせられたのだから、「自分の子供も」。同じことをさせられて然るべきである。
わたしはお父さんとお母さんよりも幸せにならないように頑張ってきたんだから、次はお前の番だ。
不幸せになれと要求されてきたわたしに、それよりも不幸になることで、わたしに「幸せ」を感じさせるのがお前の義務だ。
それが、子供の義務だ。

お前は、わたしよりも幸せになってはならない。


お父さんとお母さんよりも幸せになることを、禁ず。
その掟を守るには。「守った上で自分が幸せになる」には。


お父さんとお母さんを、幸せにしてやるしかない。


だが、不可能である。


親たちは、そもそも幸せになろうとはしていない。
なぜなら。
親たちも、「(自分の)お父さんとお母さんよりも、不幸せでいなければいけない。」
それを破れば、殺される。
そう信じ込んでいる。

「自分は、不幸せでいなければいけない。」
そう信じ込んでいる人を、他者が「幸せにしてあげよう」とすれば、必ず徒労に終わる。
「自分は、不幸せでいなければ、殺される。」
そう思い込んでいる人を幸せにしてやることは、神にも不可能だ。


つまり、お父さんとお母さんは、死んでも幸せにはならないのである。


どんなに私が頑張っても、お父さんとお母さんを幸せには、できない。


天地がひっくり返っても、幸せにはなれない人たち。
「不幸せでい続けることでしか、自分は幸せになれない」と信じ込んでいる。

狂気としか言いようがない。
「不幸せでい続けることでしか、幸せになれない。」
矛盾に気づいていない。恐ろしい。無限ループである。


正確に言えば、


「不幸せでい続けなければ、殺される。」


そう思い込んでいるわけだ。
どっちにせよ、幸せにはなれない。





自分で、自分の生を変える気のない人に、「幸せだ」と感じさせようとするには、その人よりも「不幸だ」と措定されたモノを用意しないと、無理だ。


自らの内から湧き出る、
安心だ。
安全だ。
自分は、誰にも「必要」とされなくても、何の役割も演じなくとも、誰にも「交換条件」を提示しなくても、いくらでも、無限に、生きていっていいんだ。
生き続けていって、いいんだ!


という幸せを、そもそも求めようとしていない人にとって、

「幸せ」とは、「自分よりも不幸な(とされる)人がいる」状態にほかならない。
「他者を踏み台にして見下す」感覚以外に、かれらにとって、「幸せ」と呼べるものが無い。
相対主義の、「幸せ」である。



どこかで、この因縁を断ち切ってきたひとがいる。
この地獄の連鎖を、血反吐を吐く思いで、自分のあとの人たちにはさせまいと、のたうち回りながら、「自分の」幸せを掴もうと生きてきた人たちがいる。
相対主義ではない、「わたしの」望みとは何かを、「わたしの」幸せとは何かを、ズタズタのこころを抱えて、血と涙を流しながら模索していった人たちがいる。

その人たちが、地獄の因縁を断ち切って生きてきた。
その道筋のあとにこの世界がある。


地獄の連鎖を子供に要求してきた人たちと、
連鎖を断ち切って、「わたしの」望む生を生きようと、選び続けてきた人たちがいる。




わたしは、お父さんとお母さんが望むとおりに、「わたしは、お父さんとお母さんよりも幸せになってはいけない。」と思い込みながら生きてきた気がする。

「お父さんとお母さんよりも私が幸せになりそうになったら、自分が好きなことやしたいことを我慢して、
『綺麗だ』とか、『美味しい』とか、『気持ちいい』とか、『楽しい』という感覚も、できるだけ、感じないようにしなければいけない。感じそうになったら、セーブしないといけない。ブレーキをかけなきゃいけない。」

と、深く、深く、呪いのメッセージを呑み込みながら、生きないように、生きてきた。

生きないように。
生きないように。

生きないように、自分を呪いながら。

だって、ほかの人を幸せにすることを主目的にいきていったら、「生きない」ことになるんじゃないか?
生きることはできないよな。
それ、生きていくって言わないよ。



私は、お父さんとお母さんが、「自分よりも不幸せな人」を見下さないと、幸せと感じられない人たちであることに、だんだんと気づいてきた。

すると、どういうわけか、見るもの聞くもの、食べるもの、全てが、これまでよりも、感動が減って感じられてきた。アニメも、映画も、美味しい食べ物も、大好きなゲームも。

以前はあんなに熱狂して楽しむことができたのに、今は、以前よりもずっと、何を見ても聞いても、感じない。感動しない。
味気なくってしょうがない。

どうしたんだ、私?と思っていたけど、もしかしたら、これは⋯⋯


わたし、今、
「お父さんとお母さんは色々なものを馬鹿にしたり、見下したりして。他人の目を気にせずに自分の感じるこころを大切にして、『素敵だ』とか『面白い』とか、素直に感じて楽しめない人たちだから、お父さんとお母さんが不幸せを感じないように、私はもっと色んなものを馬鹿にして、素敵だとか楽しいとか面白いとか美味しいとか感じないようにしなければいけない。感じない、つまらない、喜びが無い人間になろうとしないといけない。」
と思ってやしないか?

お父さんとお母さんは、エッチする喜びを、自分の感覚を大切にして、じぶんの身体に触れる喜びを、お互いを(自分を)たいせつにして、気持ちのいいことを心から許して、自分に認めて、よかったねえ、気持ちよかったねえって、自分といっしょに喜んであげる幸せを禁じている人だから、
「気持ちいい」と感じることを辱める、悪だと思い込んでいる、迷妄に囚われきった人だから、
私も自分で自分を悦ぶ感覚を、封じよう、忘れよう、無かったことにしようと、してないか?

まずいぞ、それ。もったいないよ!

気持ちいいって感じて、いいんだよ。
楽しいことを、気持ちいいことを、めいっぱい感じまくって、良いんだよ!

私、お父さんとお母さんに見習って、物事を馬鹿にしたり見下したりすることでしか喜びを感じられない人になろうと、感じる気持ちを、楽しむ気持ちを、感動するこころのちからを棄てようとしてきたんじゃないか!?


やばいぞ、私!


目を覚ませ、わたしよ!!


生きていいんだ、わたしよ!


わたしは、わたし達は、お父さんとお母さんよりも、幸せになっていいんだ。


あの人たちの押し付ける「幸せ」でなく、わたしが望む生を、生きて良い。



「わたし達」が、望む生を、生きていい。好い。善い。良い。佳い。



「わたし達」の一人ひとりが、望むことを、望んでいいんだよ。



生きたい。
生きるのを、やめたい。
いなくなってしまいたい。



その、どの望みも、望んでいこう。



望んでいこう。すべてを



posted by ひろみ at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

お母さんは、私をレイプした。



私は基本的に、体毛を剃らない。(まん毛は短く切る。モサモサするし)
私は基本的に、じぶんの身体が好きだからだ。
コンプレックスのある部分があっても、基本、自分の身体が好きだ。

世の人が、「ムダ毛」などと言って、目の敵のように自身の体毛を除去しようとするのに、悲しい気持ちがする。
毛が、かわいそうだと思う。
毛は、身体を守るために(少なくともその機能をもって)生えてきてくれているのに、「無駄だ」「醜い」などと言って、邪魔者扱いするのが、悲しい。

もちろん余計なお世話である。
ただ、そういう人たちは、高確率で他者の体毛をも忌み嫌い、
あろうことには「剃れ」、「隠せ」などと言う輩さえいるではないか!

私は、自分を守ってくれる毛を、愛しいと思う。
家族の、誰も、私を守ってくれなかったけど
私の身体は、私が傷つくたびに、いつもいつも私の身体を修復してくれる。
当たり前のように。かさぶたを作って、治してくれた。
そのことが、私は嬉しかった。
この世でただ、私の身体だけが、私が生き続けていってほしいと望んでくれた。
言葉なきメッセージで。しかし、明瞭に、私を助けてくれた。

口だけで味方ヅラする、卑怯者のコウモリ野郎の父親とは、大違いだった。


だから、私は、口のとこの髭も剃らなかった。
鏡で見ると、たしかにちょっと奇妙な感じがしたけど、これも偏見、刷り込みによるものなんだろう。
トルストイの小説に、鼻の下の「口髭がとてもチャーミングな美女」という表現があったし(たしか『戦争と平和』)、『千夜一夜物語』にもあったような⋯⋯(うろ覚え)?

ここの毛も、ごみが気管に入るのを防いでくれるし、あると風邪をひきづらくなるそうなのだ。
なら、なおさら剃る必要はない。

私には、たいせつな毛だ。



お母さんは、私をレイプした。
私の肉体を、こころを、強姦した。


ちょっときついので続きは後日書こう
posted by ひろみ at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

「好き」と、「好きになろうと頑張っている」は、全然違う。



「好き」と、「好きになろうと頑張っている」は、全然違う。


私、お母さんを好きになろうとしてた。
でも、「私は、お母さんが好き」と言おうとしたら、「お母さんが」で止まった。
それ以上は、息が詰まって言えなかった。身体が、言うのを拒否していた。
胸が止まって、息が詰まって、横隔膜が硬直した。

同じように、「私は、お父さんが好き」と言おうとしたら、息が詰まって言えなかった。
身体が、言うのを拒否していた。


私、「お母さんが好きだよ」と、必死にお母さんに伝えようとしてた。
「この家族が好きだよ」って。
私は、「お父さんが好きだよ」と、必死にお父さんに伝えようとしてた。

でも、無理だった。
どんなに我慢しても、自分に嘘をついても、好きじゃない人を、「好き」と言うことは、できなかった。

嘘をつくと、身体にくるんだ。

好きでもない人を、必死に、好きになろうとしてた。
一生懸命に。

そのせいで、私の身体はボロボロになっていた。
嘘をつくには、体力が要るから。

好きじゃない人を「好きだ」と嘘をつき続けるのは、『嘘をつく筋肉』みたいなのを全身全霊に強張らせて、呼吸までガチガチに統制しないといけない。
そんなことを生まれてすぐに、二十数年間も毎日、毎晩休みなく続けていたら、身体がおかしくなるのは当たり前だ。

お母さんとお父さんと関わることを想像するだけで、息が浅くなって、胸が重くなって、ずーんと世界が暗くなって見えるのは、おかしいことでも、なんでもないよ。


私は、お母さんを好きじゃない。
私は、お父さんを好きじゃない。

それを言うことに、自分に認めることに、怖ろしい罪悪感⋯⋯躊躇う気持ち?を抱いていた。
「私は、お母さんが好きじゃありません。」
「私は、お父さんが好きじゃありません。」

それを知られたが最後、わたし達は殺される。
殺されるんだ。

じっさいに、殺された。


今もちょっと怖い気持ちがする。
でも、これは駄目なことじゃないよね。


私はお母さんが好きじゃない、いいよね。


私はお父さんが好きじゃない、いいよね。



私はお母さんとお父さんが好きじゃない。
それは、いいことだよ。


「いいことだ」って、みんなに言って欲しい。


私は、お母さんが好きじゃない。

私は、お父さんが好きじゃない。


I don't like my mother. I don't like my father.

I don't love my mother. I don't love my father.

It's fine!


posted by ひろみ at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

生きたい気持ちと、生きたくない気持ちが拮抗している。



生きたいわたしと、生きたくないわたしが共に喘いでいる。

わたしが「社会」と関わろうとすればするほど、
「お前は『本来』女であるのに、『特別扱い』してやるのだから、手続きを、これでもかと煩雑にしてやる。」と言われる。
システムが、私に言い続ける。

恐ろしい。めんどくさい。かったるい。気怠い。怖い。

私には当たり前のことで、てんてこ舞いである。
個が、個を生きるだけで、猛烈に泡を食いだすのは、システムの側に強度が足りないのである。


この恐ろしさは、9割が、お父さんとお母さんが植え付けたものである。

お母さんとお父さんが、体制なのである。

お母さんとお父さんは、システムである。


「お母さんとお父さん」は、体制と寝ている。


体制は、「お母さんとお父さん」と寝ている。



安倍総理に始まったことではない。


私たちのことごとく、「お母さんとお父さん」と寝させられているのである。

犯されている。


日本は、近親姦国家である。



日本は、近親姦性虐待国家である。



posted by ひろみ at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

私がたとえ、ちんこの生えた身体に産まれたとしても。



この世に産まれて、最初に〈男〉の性を押し付けられたとしても。
わたしは、幸せになりたい。

幸せに、生きたい。


なにかの、自分のちからではどうにもできないことで、不幸せな生に、固定されたくない。

だから、(というか多分)そのために男性学に惹かれてきたんだと思う。

逆に、フェミニズムは恐かった。
自分の、根本の問題を抉り出されそうで、私の命が根っこから裏ぐり返って、壊れて潰れて死んでしまいそうだったから、私はフェミニズムを避けていた。

そのぶん、男性学は、ある程度他者性があったから、
同時に、自分の問題でも深くあったから、まずは自分にできそうなことからと、男性学を独学していたんだと思う。


男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 -
男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 -

『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』は、おっそろしい本だ。

いまでもまだ読みきれてない。
フェミニズムに触れた時と同じくらい、あるいはそれ以上に、わたしの天地がひっくり返って、地面がグラグラに崩れてしまう感じがしていたからだ。

でも、私は、この本に出会いたくて出会ったんだ。
〈女〉に産まれても、〈男〉に産まれても、幸せになりたい。

幸せに、生きたい。

幸せに生きようとすることが、世界を変えることと不即不離になってしまっている(しまっている、としか言いようがない)、私たちが。


生きるなら、世界を変えよう。



posted by ひろみ at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

「自分を大切に」なんか、できるか。



「自分を大切に」なんか、できるか。


「自分を大切に」しようとしたら、殺される家に育ってきたんだ。


「大切に」してほしいと、泣いて望んだら、「馬鹿みたぁ〜いwww」と罵倒される家に、育ってきたんだ。


「自分を大切に」しようとしたら、生き残れない家に、家族に監禁されてきたんだ。


「自分を大切に」なんか、できるか。
そんなことを言える時点で、問題の9割は存在していないんだ。
わたしに、「自分を大切に」なんて、できっこない。
できるかよ。したいけどさ。

「自分を大切に」できないんなら、ほかの人に、自分を大切に扱ってもらおう。
自分を大切に扱ってくれる人を探して、求めて、できる限りその人といる時間を増やすこと。
至近距離にいなくても、その人のけはいを、生命を、感じられるところに。


弱くって、いいんだ。
「自分を大切に」できなくて、いいんだ。
そういうときこそ、他のひとに、助けを求めようよ。
助けを求めてる時点で、「自分を大切に」できてるのかもしれないけど。
定義なんかなんだっていいんだ。
わたしを、大切に扱ってくれるひとといる時間を、増やそう。
自分がなにかをしようと思っても「できない」と感じることを、責めるのはやめようよ。

「できない」ように仕立て上げた調教師がいることを、思い出せ。
「できない」ことを望んで、未来永劫自由になれないように、望んで調教した奴隷主人がいることを、覚えておけ。

「自分を大切に」なんか、できるか。
「今の」わたしに。


「自分を大切に」なんか、できるか!



「自分を大切に」なんか、できるか!!!



posted by ひろみ at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする