2017年08月17日

わたしの長兄は、サイコパスです。



わたしの長兄は、サイコパスです。



「サイコパス」がわからない人は、良心をもたない人たち (草思社文庫) -
良心をもたない人たち (草思社文庫) - を読んでほしい。
様々なサイコパス研究の書を読んだけど、マーサ・スタウトのこの本が、いちばん「初心者」にも分かりやすく、
また、「家族にサイコパスがいる」当事者の実感を、最も的確に記述している、と感じた本だ。

最初にを読んだ時の、「これだ!」という天地がひっくり返るような、悲しい感覚は、今でも忘れられない。



わたしの、人生で二番目に古い記憶は、
5、6歳年上の長兄に、下顎をエアガンで撃たれた記憶です。

私がおむつをしていた、乳幼児ぐらいの事でした。
間違って当たった、というのではなく、

長兄がわたしに銃口を向けて、狙いを定め、その直後に顎に鋭い痛みが走りました。

明らかに、幼児のわたしの、顔を狙って銃口を引いていました。


それがわたしの、人生で二番目に古い、そして、長兄に纏わる、いちばん最初の記憶です。


次の記憶は、わたしが歩行ができるくらいになった時の記憶です。





※ちょっと書くのが困難になるので、この記事は少しずつ書き足していきます。
posted by ひろみ at 11:50| Comment(0) | 私の長兄はサイコパスです。 | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

なんか、インターネット

なんか、インターネット、
特にSNS(そして特にTwitter)などで、

毒にも薬にもならない良い子ちゃんフェイスをした、うわべの当たり障りのないゆるふわ肯定発言(※)、『友』発言か、
対象を完全に徹底的に叩きのめして抹消するために、必死ささえ漂う呼吸で侮蔑し悪罵するマウンティング罵声、『敵』発言の、

二極に分断されたことばしか出せなくなっているひとが、とても多くなっている。


「敵か。味方か。」以外の存在を絶対に認めない。ということば。


「お前は、味方ではないのならば、絶対に敵だ。」
「お前は、敵ではないのならば、絶対に味方だ(な?)。」


「わたしはあなたの敵でもなく、味方でもないが、状況によっては、わたしはあなたに寄り添いうるし、あなたもわたしに寄り添いうるだろう。
同時に、状況によっては、わたしはあなたに逆らいうるし、あなたもわたしに逆らいうるだろう。」



ということばを、絶対に許さない。認めない。ということば。
そんな存在は、絶対に認めない。


「どちらでもない、どちらでもありうる。」など、恐くて恐くてたまらないのだ。


「自分を殴るひとか。自分の奴隷になるひとか。」しか、世界にはないのだ。




そういう「世界」に、ゆらぎの性は、たいへんに馴染まざるものだろう。




※肯定「的」と、「肯定」は、違う。
posted by ひろみ at 23:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

人類が「産まなく」なれば、きっとわたしは楽になる。



人が、「産む」ということをしなくなれば、こんな苦しみから、少しは解放されるんじゃないだろうか。

わたしは、人間の肉体から独立した、人工子宮の開発を、こころから望んでいる。


そして、育児ロボットの開発を、せつに、切に望んでいます。
精密な育児ロボットなら、壮年だって、中年だって、わたしにだって、愛着を与えることができるでしょう。

少なくとも、わたしのDNA上の親たちよりは。


わたしは、テクノロジーの発展がいつか来たることを熱望します。


数百年後、もしかしたら数十年後には、

「えっ あなた、自分の子宮で産むの!?変わってるねー⋯⋯マゾヒストなの?」って

ドン引き顔で聞かれる時代が、来ると思いますよ(確信)。


「えっだって、ヘタしたら死ぬでしょ?股切開するって聞くよ!?そういうフェティシズムなの⋯⋯?いや、まあ、人は色々いるって言うけどねぇ、いやぁー⋯⋯そういう人がいるんだぁ(笑)。」

「いや、まあ、個人の自由ですからね(笑)。⋯⋯でも、産まれてくる子供の人権上、どうなんですか?あなたの好奇な、身勝手な趣味のせいで、死産させられる可能性を増やされる子供の立場は?考えない?⋯⋯はぁーん⋯(白い眼)。」


「テクノフォビアの、差別主義者!」と。


「子宮で産ませる!?あんた女をなんだと思ってんの!?この人でなし(ビンタ)!!!!!奥さん可哀想⋯⋯(通報しなきゃ⋯)。」



ともすると、

「妊娠する危険性があるのに、違うsexのひとと性交するなんて、よっぽどのことなんでしょうね⋯⋯?」

という視線がデフォの時代が、くるかもね?



いつか?


posted by ひろみ at 05:06| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月13日

1人暮らしに調理バサミと電子レンジ調理器は必須だ。

調理バサミでザクザク切った茄子を、
https://www.amazon.co.jp/dp/B004WAFMLG/にぶち込み、
ツナフレークと混ぜて電子レンジで4分半。

好みでにんにくを混ぜたり醤油を振りかけたり、粉チーズを振ったり。

ごま油だけを絡めてただチンしても、トロットロで美味しい。


一年半ぐらい、9割がた電子レンジ調理器でごはんを作っている。
ガス代はお風呂以外に掛からない。

暑いのにガスコンロの前に立つなんてきついっす。
調理器具がそのまま食器になるから、とても楽でいい。
目玉焼きとお好み焼きはこのレンジクックで作るのが1番快適だ。
しかも美味しい。


まな板を使って洗うのが面倒だからもう、ほぼ調理バサミ。
肉を切るのも野菜を切るのも、調理バサミってなんて便利なんだ。
長ネギなんかちょきんちょきん、葉物野菜も食べる分だけジョキジョキ切って使う。
包丁が原始時代の道具に思える。
1人暮らしに調理バサミは絶必であろう。


食器はほとんど樹脂やプラスチックだ。
落としても割れない、軽い、プレッシャーのなさがいい。
最近のはデザインもいい感じのが多い。


パスタをチンするのが面倒くさいときは、コンビニで売ってるうどん玉をチンして、パスタソースを絡める。
きのこバター味とか良く合う。

posted by ひろみ at 01:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

神を、飼おう。

他人の欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それ、わたしの欲望じゃない!


お母さんの欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それを、わたしは自分の欲望だと勘違いしている。



ラカンは「すべての欲望は、他者の欲望を模倣するところから始まる」と言っているらしい(未読)けど、

じゃあ、「すべての欲望のはじまり、原欲望みたいなものは、どこから来たの?」という疑問がある。


「わたしの欲望」だって、あるんじゃないの?

お腹が空いて、食べ物を食べたいとか、わたしの欲望じゃないの?

それとも、誰かに「食べさせられて」、初めてわたしは「ものを食べたい」という欲望を刷り込まれた、ということなんだろうか。

赤ちゃんのわたしが、「食べたい!」と望む前に、
誰か(おそらくは母親であろう)が、わたしに「乳を飲ませたい。」と欲望して、わたしに飲ませた。
そして、わたしは、「食べる」という快楽をまなんだ。

食べる、食べさせられる。

「この子に食べさせたい。」という他者の欲望を注がれて、
その他者の欲望を取り込むと同時に、わたしの中に「食べたい(食べさせられたい)。」という欲望が生じた。

この瞬間、たぶん、わたしのなかで「食べる」と「食べさせられる」の違いはなく。
感覚のうえでも、それが他者の欲望であるのか自分の欲望であるのか分からない、曖昧である、
そもそもその境界線が存在しない。という世界にいたんじゃないだろうか。

そして、「食べさせられる/食べる」の欲望をまなんだわたしは、お腹が空いたり口寂しくなったら、大声で泣いて、誰かを呼ぶようになった。

しかし、それを見た、聞いた他人(主に母親)は、「この子が食べたがっている。」と解釈して、
「乳を飲ませたい。」と欲望し、乳を飲ませる。

その行為自体は、「食べさせられる/食べる」同位体とでも言うべきものだろう。
つまり、どちらにも解釈できる。
どちらかが誤りであって、どちらかが正しい、などということはない。
「食べさせられる」であり「食べる」であるところの行為が、この大人と赤ちゃんとの接続体に発生している。

大人にとっては「赤ちゃんによって、与えさせられる」であり、赤ちゃんにとっては「大人によって、食べさせられる」であるところの行為が。

どちらも、相手に「やらされている」という感覚を持っている。



やはりすべての生き物は生きさせられているのであり、
しかし、自分の力ではどうにもできないこれを、「自分が望んでやっている」とは、到底感じられない。

自分の力ではどうにもできないこれを、させている「誰か」がいる。

誰か、「他者」だ。

こうして、「他者」は生まれた。いや、「生まれさせられた」。


「他者」は、「生まれさせられた」。




とにかく人は、自分の力ではどうにもできないことを、自分の所為だとは到底感じられず、かといってそれを為している「主体」が、どこにも存在しない。設定できない、というのが、耐えられないんだろう。

だから、架空の「他者」を生み出す。

それは、「神」に近い。


この「神」を信じられないとき、信じたくないとき、人は、手近な人間なり石なり動物なりの「せい」にするんだろう。
だれか、ほかのやつの「所為」に。


なにか、自分にはできない凄いことができる他者、というのは「神」なのである。

それは、ほんらい、親でもなく子供でもなく、「神」としかいいようのない存在でしょう。
架空であっても。


しかし、神には「実体」はないから、それに人は耐えられない。

どうしても、「実体」のある神を求めたがってしまう。わたしだってそうだ。

だから、「実体」を持っている「自分にはできない凄いことができる他者」をみた途端、
「このひとは神だ!!!」とLOVEモードに入ってしまう。


だがちょっと待ってほしい。
そのひとは確かに、「自分にはできない凄いことができる他者」だ。


しかし、全知全能の万物主だとは一言もいってないんだよなぁ⋯⋯。


でも、でも、だって。


人は、「実体」をもった、「全知全能の万物主」が欲しくてたまらないのです。


でも残念ながら、そいつに、実体はありません!!!!!!!!!!!
残念ッ!!!!!


ないもんはないんだから仕方ないだろうが!!!!!!!でも欲しいよね。


でも、何度言っても足りないが、「全知全能の万物主」に、「実体」はないんだよ!!!!!!!!


科学でも数学でもいかなる実証学でも、観測できはしない!!!



だってそれは、わたしのこころのなかにあるんだから。


それは、自分の力ではどうにもできないものと初めて出会ったとき、わたしが最初に生み出した、
「わたし達」のうちの一人
なんだ。


きっとそれは、赤ちゃんの時に。


わたしは、自分の力ではどうにもできないものと出会った瞬間、恐怖しました。そして、次の瞬間、神さまを生み出しました。


わたし達のなかの、「なんでもできるだれか」というひとつの人格です。


「なんでもできるだれか」をこころのなかに生み出したわたしは、安らぎました。

困ったことがあったら、この「なんでもできるだれか」に、頼ればいい!

そう思うと、ほっと安心したのです。


だが、困ったことに。

この「なんでもできるだれか」は、姿を現してくれないのです。
音も立ててくれないし、触ることも、しゃぶることもできないのです。
怖いです。


ふだん、人は、解離しています。
この世に、解離していない人などいません。

日常生活を送るには、何を食べようか悩んだりどこに行こうか悩んだり何時に出ようか悩んだりする、「前のわたし」に意識を移して生活しなければならないからです。

「前のわたし」に意識を移していると、「後ろのわたし」に意識がいかなくなります。

しかし、
神さま、「なんでもできるだれか」は、「後ろのわたし」のなかにいます。
ゆえに、「前のわたし」がフル回転して活動しているとき、「後ろのわたし」、「なんでもできるだれか」は、意識の中でお留守になります。

わたしは、怖くなりました。
「なんでもできるだれか」がいなかったら、わたしがお腹が空いた時、寒くて凍えそうな時、天敵とであった時、大怪我をした時、どうすればいいのでしょうか?


死⋯⋯?


耐えられるわけがありませんでした。
堪え難い死の恐怖に襲われたわたしは、「なんでもできるだれか」を、「実体」のある存在に投影しました。

その、最初のひとが、母親でした。
べつに、そのひとでなくてよかったのです。
自分の一番近くにいて、自分にご飯をくれたり温めてくれたり護ってくれたりする可能性のある存在であれば。
ロボットでも。植物でも。養い親でも。父親でも。
何でもよかったのです。

ただ、
そのときは、たまたま、母親しか、相対的に長時間近くにいてくれる存在はありませんでした。

だから、「なんでもできるだれか」を、母親に投影するしかなかったのです。
偶然に。
無意味に。

無理由に。

無原因に。

無根拠に。

たまたま。この時代の、この国では。母親しか、相対的に長時間、そばにいて世話をしてくれる可能性のある存在が、それしか、いなかったのです。

だから、わたしは、「なんでもできるだれか」を、母親に投影しました。
「神さま」を、母親に投影しました。

そうするしか、なかったのです。

ですが、「現実」との乖離は、わたしを苦しめました。
苦しんで苦しんで苦しみぬきながら、なんとか、今日に至るまで、生き残ってくることができました。

それは、ひとえに、偶然と、わたしの頑張りのおかげでした。
偶然だけではなく。わたしの頑張りだけではなく。

偶然と、わたしの頑張りの、どちらもがあって、やっと、生き残ることができたのです。





自分のケアを、ある程度、自分でできるようになったわたしは、

「わたしだけの神さま」を、わたしのなかに飼おうと思います。


目に見える実体に、「なんでもできるだれか」を投影するのを、辞めて。


わたしは、


「わたしの気持ちと身体に、とことん寄り添ってくれる人格」を、飼って生きていきたいと、望みます。






posted by ひろみ at 04:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

いいぞどんどん言ってやれ >すべての人へ。




わたしは言いたいことを言いまくってやりたくて(半)匿名でことばを書いているけど、実名を明らかにしてものを言うのは、どんなにか勇気のいることだろうと思う。


‪私は、パレーシアするひとを‬‪尊敬する。‬

‪顕名で生き恥を晒しているネットウヨク的な人々もいるが、それはそれで懸命に生きているのだろうとは思う。尊敬はできないが。‬

‪とにかく、言いたいことを言うのは気持ちがいいものだ。‬

‪言いたいことを言えばいいのだ。みんな。‬
‪言いたいことを言って逮捕される国でない限り、匿名でくらい、言いたいことを言えばいい。みんな。‬
‪言いたいことを言うのは最高の健康法だ。‬

‪糞親たちを見よ。‬
‪サイコパスお母さんたちの、究極の言いたい放題っぷりを、そのイキイキっぷりを、もっと見習っていい。‬
‪ほんと、言いたいこと言いまくってるからあいつら、健康なのよね⋯⋯死ねばいいのに。‬


‪話がちょっと逸れた。‬


‪わたし達が奪われたのは、「ことば」だ。‬
‪「ことば」を、取り戻せ。‬


‪わたしは、千葉雅也さんのパレーシアに、こころからの、「よっしゃあ!」を送る。‬





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
‪これを言うかは長く迷っていたんだけど、僕の文脈を知らない読者も増えたし、「我々」の時局も時局だから、前提を示した方がいいだろうと思って言うと、僕はゲイとして生きてきました。正確にはバイセクシャルな面もあるので、ほぼゲイとして。これまで、その立場から社会的発言をしてきました。‬午後10:08 · 2017年7月27日


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
こういう言い方もアレだけど、ゲイの知識人としての役割を果たす必要もあるな、と思ったわけよ。フーコーだってそれをやった。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
歴史との格闘だな。カッコつけてばかりもいられない。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachib‬a
‪まあ、このアカウントは親が見てるから、あちゃーと思うだろうなあ。いやはや。‬

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachib‬a
しかしそれも本当「我々」にとっては問題でね。子の親に対する葛藤というのは古い問題系で、むしろ親から子へ、という東さんの理論方針はある種の非精神分析として大事なんだけど、こっちとしてはやっぱ親の問題はデカいわけですよ。


ほんっとそーなのよね!!!!!!!!!!!!!
親によるヘイトクライムの被害者となった子供たちで、集団訴訟とかできませんかね!?
ファーストレイプもセカンドレイプもサード(ry)喰らってるんですけど、親を法で規制しろよ!!!!!!!
だから東さんの提唱する「新しい家族」なる概念も怖気走ってしょうがないんですよね!!!!!!!!

「私たち」は、「家族」というだけで、反吐が出るんですよ!!!!!

どんなに素晴らしい概念でも、「家族」と名付けられた時点で、蕁麻疹が出て、虚脱状態、呼吸困難に、「生理的に無理」になる人たちの気持ちも、思い知らせてやりたいぐらいだなぁ!!!

そのくらいの覚悟をもって、「家族」ということばを選んでるのか、疑問ですね。
べつに東さんに恨みがあるわけじゃないが、そんなふうに簡単に、気軽に(と敢えて決めつけさせてもらう。)「家族」ということばを使える時点で、
「ああ、わたし達とは全く彼岸の世界で生きてらっしゃるんだなあ⋯⋯」と疎外を覚えるんだよ。
この事実を、思い知ってほしいね!!!


「家族から擬似家族へ」とかって、「家族」という名がついてる時点で、地獄への再回帰にしか感じられないんだよ。

こういう、「名前」の問題って、大事だぞ。
「家族」じゃない、新概念じゃだめなん?



だいたいセクマイ当事者は往々にして親に対して弱腰なんだよ!!!!!!!
そこは私、憤ってるぞ!!!!!

「あなた何も悪くないやん⋯」ってことで「親に申し訳なく」思っているセクマイ達のことばを聞いて、どんなに(他人事ながら)忸怩たる思いを噛みしめているか!!!

「ぶち◯すぞ(共謀罪対策)ヘイトクライマー!!!」と叫んで糞親に中指を立てる気概が足りない!!!!!

気概をもて。
親よりも、はるかにあなたの尊厳のほうが大事なんだよ!!!!!!!!


まきむぅはアダルトチルドレンの自認をもったほうがいいと思う(お節介無礼発言)。



千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
僕はストレートのアライの立場には基本的に懐疑的です。というのは、彼ら自身の承認欲求が大きくあるのでは、と思うからです。今日、LGBTを支援することはほとんど「絶対的な善」であり、そうすれば絶対的に承認される。絶対に外れない「承認馬券」を買うようなものだからです。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
今のはいくらなんでも悪し様に言っているけど、つねに承認の偶発性で揺らいでいる当事者の立場からすれば、こっちにすり寄ってくるアライは盤石な立場で結構なことですねえ、という思いがあるというのが正直なところ。まあ、必要な存在ではあるけど。って言うと冷たいが、それがこっちの感覚だな。


‪わたしは、‬「アライ(同盟者・味方)」という言葉に、ペテン師の臭気を感じる。
なんと他人事感丸出しの、お為ごかしの、「好意ある善人でございます。」上から目線オーラ溢れることばだろうか。
「私は君の味方だよ!」と自称しながらにじり寄ってくる奴の、鼻持ちならない詐欺師臭を、自身では感じられないのだろうか?


あんたが私の味方かどうかは、私自身が判断する。
あなたが決めることじゃない。勘違いするな!


という思いを、「アライ」という言葉に感じます。


名乗るんだったら、「脱ヘテロセクシスト」「クィアストレート」とか、どうでしょうか?



そもそもなあ。


自分はホモだと絶対に思われたくないけど、『マイノリティに優しい善良な市民』の服は着たい!自分は絶対にホモだと思われたくないけど。」


って願望が見え見えなんだよ!!!!!!!!


「私はあなた達を差別しませんよ!私自身は絶対にホモだと思われたくないので『ストレートだけどホモに味方する人』という造語をわざわざ作って世間に流布はしますが、『ホモのあなたたち』を差別するような酷い人達とは、私は違うんですからね><!!!」

って言われてセクマイが喜ぶとでも思ってるのかな?
無礼(なめ)てんのか?


「味方」を名乗りたいなら、自分もホモだと思われる覚悟をもてよ。


ホモだと思われる覚悟もなしに、
「同類」だと、「お仲間」だと、十把一からげに差別される覚悟もなしに、
「脱差別」の旗なんぞ掲げるな。


「私たち」が戦っているのは、その「十把一からげ」なんだよ!


このヘテロセクシズムの世界を攪乱し、動揺し、内破したいなら、
自分に負わされた「十把一からげ」の衣を、「これも面白いじゃん?」と笑って肩脱ぎに掛けていく、「身振り」が必要だ。

差別者たちは、その朗らかな「引き受け」に、戦慄し不安に襲われるだろう。
足元が、動揺させられる。

軽やかにスティグマを着こなして、かぶいて魅せる出で立ちこそが、「しるし」を無意味に、たんなる模様へと変えていく。

スティグマを空洞化するその手伝いをしてくれるなら、「おっ ありがとさん。」と思えるんだがねぇ?


決して「味方」には、なれんでしょうな。
「アライ」を名乗っているかぎり。





言いたいことを、言ってやる。




posted by ひろみ at 03:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

永田カビさんと同じ症状が出ている。

永田 no moreスマホ破損 @muninini 6月18日
お母さんのいい子に戻りたいと思う気持ちよ


ちょうど、永田カビさんと近い時期(私は2016年4月に出ました)に毒ホームを出て一人暮らしを始めたため、今まさに同じ症状が出ている。シンクロしてるよ!

ちなみに初めてレズ風俗行ったのも3〜4年前で、おそらく(偶然)近い時期に初風俗体験したんだなあ。
だが大きな差はある。







まあいい。いつかは⋯⋯いつかは⋯⋯!そして生涯を迎えそう


で、症状(と呼ばせてもらう)の話なんですが、

どんなにきっぱりと、行動のうえで親達と決別していても、
こころのなかには、共依存フルな「わたし達」がいるわけじゃないですか。
その共依存フルな「わたし達」は、死んではいないわけです。
殺したいと望むんではなくて、その「わたし達」に、
「だいじょうぶ。もう、共依存しなくていいんだよ。
もう、お父さんとお母さんに嫌われても、殺されたりしないよ。
どんなにお母さんとお父さんに嫌われたって、わたしは生き残れるんだよ!」

と辛抱づよく説得して、その「わたし達」の信頼を勝ち取れるように、
行動のうえで、はっきりと実践していかなくちゃならない。

行動とは、まず、

わたしをケアすること。

わたしの気持ちを聞く。
お腹が空いたら食べて、トイレへ行きたくなったら行って、夜は歯を磨いて、フロスをかける。
病気をしたら病院へ行って、お風呂に入って、アトピーの肌をケアする。

そして、お母さんの誘惑を拒絶する。

これが大事だ。
ただ、なかなか難しい。

優しい顔をしたくなる。
なにも、傷つけたくって、親達を傷つけているんじゃあない。
少しは、傷ついてほしいという思いもあるけど、
大部分は、やっぱり、お母さんとお父さんを、傷つけたくない。できるならば。


できるならば、と思ってしまう。できっこないのに。

できっこないんだよ。
そうできるんなら、どんなにそうしたいか。

でも、傷つけないと、わたしを護れない。
そういう人たちなんだ。

わたしを一人の人間として、人権を持った主体として扱ってくれる人となら、わたしも、小さな行き違いで互いに傷つけ合ったとしても、

相手の、お互いのほんとうに大事な部分は、踏み躙らないように、不必要に傷つけないように(傷つける必要がある場合もある。どんな相手とも。)、憚りながら、でも信頼しあいながら、やりとりを続けていくことができる、と感じている。

でも、それお母さんとお父さんは、できないんだよね。わたしに対して。
不能なんだよね。能力を持っていないんだよね。
「器官」を喪失しているのかもしれない。
そう感じるほど、あの人たちは、「目下」の人間(特に子供)に対してだけサイコパスになる生物なんじゃないか。

傷つけたくないよ。できるもんなら。
できるもんなら、お母さんとお父さんを傷つけたくないよ。
でも、傷つけなくちゃいけないから、悲しいよ。



でも。
そもそも、お父さんとお母さんって、傷つくのかな?

わたしが「傷つけてしまった」と感じているのは、わたしのお母さんとお父さんじゃなくって、
「『わたしのなかの』お母さんとお父さん」なんじゃないか?

わたしが「傷つけた」と感じているのは、わたしの心内世界に住まわせている「お母さんとお父さん」なる幻想じゃないのか?

「現実の」お母さんとお父さんは、今ごろ菓子食って寝っ転がりながらつまんねぇテレビ見てワッハッハ!と笑っているんじゃないか?
「今ごろあの子どうしてるかしら⋯」なんてセンチメンタルに夜空を見上げてなんか、いないんじゃない?

そんなロマンチックな夢見てるの、子供だけじゃないの?

に決まってんだろ!!!!!!!!!!!!


願望フィルターというのは恐ろしいもので、何度破っても何度破っても自己修復を繰り返す、強靭な再生力を持った極厚オブラートで出来ています。

防弾ガラスよりも厚いです。
クソババア共の面の皮ぐらい厚いです。

そうだ、もしかすると⋯⋯


子供の「願望フィルター」と親どもの面の皮は、厚さが正比例するのかもしれない。


この仮説が証明されたら、いくらかくださいねっ!


なんて冗談はいいとして。


わたしのなかの、ズーンと重い、「お母さんとお父さんを傷つけてしまった⋯⋯。」という思いは、現実の奴らではなく、
わたしのなかの、「わたしの願望するお母さんとお父さん」を負わされた人格、つまり
「わたし達」のなかの1人(2人)を傷つけた。傷ついた、という実感なんじゃないか。

わたしのなかに、「わたしの願望するお母さんとお父さん人格」が、それぞれいるんだ。

だから、「現実のお母さんとお父さん」がさっぱり傷ついてなかろうと、「わたし」は、深く傷ついてしまう。

「わたしだったら」、傷つかずにはいられないだろう、と想像するから。


「わたしがお母さんだったら」、あの時、あんな酷いことをこの子に言わないだろう、とか、
「わたしがお父さんだったら」、わたしの言葉を真剣に受けとめて、これまでの自分の態度を深く反省するだろう、とかの、
延長なんだよね。


つまり、この「願望人格を負わされたわたし達」に語りかけてあげる必要があるんだ。


⋯⋯ということを思っていたら、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 - が答えをくれました。

わたしはどうしたらいいの?が具体的にわかります。

わたしはいま、実践しています。
実践した結果、だいぶ楽になりました。

『身体はトラウマを記録する』は超スーパーハイヤーエレクトロニック神名著だったので、いつか紹介する記事を書きたい。

というか買いましょう。
殴られたりネグレクトされたり性虐待されたり解離したりしたことのある人は、なにはなくともまずこの本を読んでほしい。
「身体に問題なんてないよ」、と思い込んでいる人こそ読みましょう。
わたしもそうだったから。

だいたい、「身体に問題なんてない」と思い込んでる時点で、身体と解離してるんだよなあ⋯⋯

自分の身体と「関係」を結んでいるひとは、

身体は日々、なにかしらの問題を訴えていて、
それを私たちが、親身に耳をすませて寄り添うことで、やっと心身の調和のとれた状態を手にすることができている、という事実を、身体の芯から、わかっているんだ。

それを解っていないからこその、
「私の身体に問題なんてない。問題があるのは私の精神だ。」という片手落ち自己認識が発生する。


図書館でもいい。
お金を出して、繰り返し読む価値もある本だ。


生きのびるために、『身体はトラウマを記録する』を読もう。


posted by ひろみ at 20:47| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする