2017年08月08日

神を、飼おう。

他人の欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それ、わたしの欲望じゃない!


お母さんの欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それを、わたしは自分の欲望だと勘違いしている。



ラカンは「すべての欲望は、他者の欲望を模倣するところから始まる」と言っているらしい(未読)けど、

じゃあ、「すべての欲望のはじまり、原欲望みたいなものは、どこから来たの?」という疑問がある。


「わたしの欲望」だって、あるんじゃないの?

お腹が空いて、食べ物を食べたいとか、わたしの欲望じゃないの?

それとも、誰かに「食べさせられて」、初めてわたしは「ものを食べたい」という欲望を刷り込まれた、ということなんだろうか。

赤ちゃんのわたしが、「食べたい!」と望む前に、
誰か(おそらくは母親であろう)が、わたしに「乳を飲ませたい。」と欲望して、わたしに飲ませた。
そして、わたしは、「食べる」という快楽をまなんだ。

食べる、食べさせられる。

「この子に食べさせたい。」という他者の欲望を注がれて、
その他者の欲望を取り込むと同時に、わたしの中に「食べたい(食べさせられたい)。」という欲望が生じた。

この瞬間、たぶん、わたしのなかで「食べる」と「食べさせられる」の違いはなく。
感覚のうえでも、それが他者の欲望であるのか自分の欲望であるのか分からない、曖昧である、
そもそもその境界線が存在しない。という世界にいたんじゃないだろうか。

そして、「食べさせられる/食べる」の欲望をまなんだわたしは、お腹が空いたり口寂しくなったら、大声で泣いて、誰かを呼ぶようになった。

しかし、それを見た、聞いた他人(主に母親)は、「この子が食べたがっている。」と解釈して、
「乳を飲ませたい。」と欲望し、乳を飲ませる。

その行為自体は、「食べさせられる/食べる」同位体とでも言うべきものだろう。
つまり、どちらにも解釈できる。
どちらかが誤りであって、どちらかが正しい、などということはない。
「食べさせられる」であり「食べる」であるところの行為が、この大人と赤ちゃんとの接続体に発生している。

大人にとっては「赤ちゃんによって、与えさせられる」であり、赤ちゃんにとっては「大人によって、食べさせられる」であるところの行為が。

どちらも、相手に「やらされている」という感覚を持っている。



やはりすべての生き物は生きさせられているのであり、
しかし、自分の力ではどうにもできないこれを、「自分が望んでやっている」とは、到底感じられない。

自分の力ではどうにもできないこれを、させている「誰か」がいる。

誰か、「他者」だ。

こうして、「他者」は生まれた。いや、「生まれさせられた」。


「他者」は、「生まれさせられた」。




とにかく人は、自分の力ではどうにもできないことを、自分の所為だとは到底感じられず、かといってそれを為している「主体」が、どこにも存在しない。設定できない、というのが、耐えられないんだろう。

だから、架空の「他者」を生み出す。

それは、「神」に近い。


この「神」を信じられないとき、信じたくないとき、人は、手近な人間なり石なり動物なりの「せい」にするんだろう。
だれか、ほかのやつの「所為」に。


なにか、自分にはできない凄いことができる他者、というのは「神」なのである。

それは、ほんらい、親でもなく子供でもなく、「神」としかいいようのない存在でしょう。
架空であっても。


しかし、神には「実体」はないから、それに人は耐えられない。

どうしても、「実体」のある神を求めたがってしまう。わたしだってそうだ。

だから、「実体」を持っている「自分にはできない凄いことができる他者」をみた途端、
「このひとは神だ!!!」とLOVEモードに入ってしまう。


だがちょっと待ってほしい。
そのひとは確かに、「自分にはできない凄いことができる他者」だ。


しかし、全知全能の万物主だとは一言もいってないんだよなぁ⋯⋯。


でも、でも、だって。


人は、「実体」をもった、「全知全能の万物主」が欲しくてたまらないのです。


でも残念ながら、そいつに、実体はありません!!!!!!!!!!!
残念ッ!!!!!


ないもんはないんだから仕方ないだろうが!!!!!!!でも欲しいよね。


でも、何度言っても足りないが、「全知全能の万物主」に、「実体」はないんだよ!!!!!!!!


科学でも数学でもいかなる実証学でも、観測できはしない!!!



だってそれは、わたしのこころのなかにあるんだから。


それは、自分の力ではどうにもできないものと初めて出会ったとき、わたしが最初に生み出した、
「わたし達」のうちの一人
なんだ。


きっとそれは、赤ちゃんの時に。


わたしは、自分の力ではどうにもできないものと出会った瞬間、恐怖しました。そして、次の瞬間、神さまを生み出しました。


わたし達のなかの、「なんでもできるだれか」というひとつの人格です。


「なんでもできるだれか」をこころのなかに生み出したわたしは、安らぎました。

困ったことがあったら、この「なんでもできるだれか」に、頼ればいい!

そう思うと、ほっと安心したのです。


だが、困ったことに。

この「なんでもできるだれか」は、姿を現してくれないのです。
音も立ててくれないし、触ることも、しゃぶることもできないのです。
怖いです。


ふだん、人は、解離しています。
この世に、解離していない人などいません。

日常生活を送るには、何を食べようか悩んだりどこに行こうか悩んだり何時に出ようか悩んだりする、「前のわたし」に意識を移して生活しなければならないからです。

「前のわたし」に意識を移していると、「後ろのわたし」に意識がいかなくなります。

しかし、
神さま、「なんでもできるだれか」は、「後ろのわたし」のなかにいます。
ゆえに、「前のわたし」がフル回転して活動しているとき、「後ろのわたし」、「なんでもできるだれか」は、意識の中でお留守になります。

わたしは、怖くなりました。
「なんでもできるだれか」がいなかったら、わたしがお腹が空いた時、寒くて凍えそうな時、天敵とであった時、大怪我をした時、どうすればいいのでしょうか?


死⋯⋯?


耐えられるわけがありませんでした。
堪え難い死の恐怖に襲われたわたしは、「なんでもできるだれか」を、「実体」のある存在に投影しました。

その、最初のひとが、母親でした。
べつに、そのひとでなくてよかったのです。
自分の一番近くにいて、自分にご飯をくれたり温めてくれたり護ってくれたりする可能性のある存在であれば。
ロボットでも。植物でも。養い親でも。父親でも。
何でもよかったのです。

ただ、
そのときは、たまたま、母親しか、相対的に長時間近くにいてくれる存在はありませんでした。

だから、「なんでもできるだれか」を、母親に投影するしかなかったのです。
偶然に。
無意味に。

無理由に。

無原因に。

無根拠に。

たまたま。この時代の、この国では。母親しか、相対的に長時間、そばにいて世話をしてくれる可能性のある存在が、それしか、いなかったのです。

だから、わたしは、「なんでもできるだれか」を、母親に投影しました。
「神さま」を、母親に投影しました。

そうするしか、なかったのです。

ですが、「現実」との乖離は、わたしを苦しめました。
苦しんで苦しんで苦しみぬきながら、なんとか、今日に至るまで、生き残ってくることができました。

それは、ひとえに、偶然と、わたしの頑張りのおかげでした。
偶然だけではなく。わたしの頑張りだけではなく。

偶然と、わたしの頑張りの、どちらもがあって、やっと、生き残ることができたのです。





自分のケアを、ある程度、自分でできるようになったわたしは、

「わたしだけの神さま」を、わたしのなかに飼おうと思います。


目に見える実体に、「なんでもできるだれか」を投影するのを、辞めて。


わたしは、


「わたしの気持ちと身体に、とことん寄り添ってくれる人格」を、飼って生きていきたいと、望みます。






posted by ひろみ at 04:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする