2017年03月11日

親たちは、「逆VR」を被っているのか?



お母さんが、あまりにも私の存在を、「いるのに見えてない」ようにしかみえないのが、(今は会ってないので過去形だが)、意味分からなくてしょうがなかった。

どうして、あそこまで、人間ではない、ゴミのように私という存在を⋯⋯というか、存在とすら思ってなかったんじゃないか、と深く思う。

逆VRみたいなことになってんだろうか。
お母さんは、私の存在だけステルス化されるヘッドギアでも被ってたんじゃないか。

他にも色々ステルス化してそうだけど。
都合の悪いことがらはコンマ3秒で抹消されるヘッドギアを被ってるみたいだ。

お母さんとお父さんがいると、私が透明人間になったように感じた。
透明人間にされることは、非ヘテロセクシュアルの存在が抹消されているのと同じくらい、死にそうになる、つらいことだ。

誰かの存在を、抹消できる人はちょっと羨ましい。
私も家族の存在を人生から抹消したい。
ヘテロセクシズムも抹消したい。


お母さんもお父さんも、別々のヘッドギアを被っている。現在進行形で。


そのどちらにも、私は映し出されていない。


親と子、支配者と被支配者の関係は、「意識と肉体」の関係に似ているような気がする。
というかそういうことを言っている人がいたと思う。

私は、身体の感覚が希薄だ。

事故などで「麻痺」が残る人がいるけど、それに近い感覚なのだろうか。
解離しているから、自分の身体が自分の身体と感じづらくなっている⋯というか。

でもなんか、解離以上に、根本的に、自分の身体をうまく操縦しづらい感じがする。
ガンダムのモビルスーツとかの、「乗り込むロボット」の感覚と近い。

私は、乳児期から、親たちによってネグレクトを受けていた。

抱っこされた記憶が無い。
手を繋いでもらった記憶も無い。
おむつを付けた乳児期から、誰もいない家の中に、長時間置き去りにされていた記憶がある。

歩行できるようになっても、外に連れ出してもらえることは無かった。
公園などに連れて行ってもらった記憶も、無い。

お母さんは、「3人目ともなるとテキトーなのよーw」と言っていた。


「遊ぶ」ということが、よくわからなかった。

私は、「探索行動」を取る力を、乳幼児期に、親たちによって奪われていた。
泣きたい気持ちがするけどなんかわからんなあ
泣く一歩手前のとこで呆然としてる感じ
そういう感じでずっと生きてきた。

ずっと顔色を窺っていた。
ここから出られないということは、「この人たち」が私の生殺与奪を握っているということだ。
幼い子供にとっては、特に。

そういうわけで、私は、できるだけ親に泣かないようにしていた。
おむつを換えてほしくても、「今はまずい!」とじっと我慢していたことを覚えている。
泣いて援助を求めたら、「何この子、めんどくさい。やだー!こんな子、要らないから棄てよう。」とお母さんたちが思ってしまうんじゃないか。
きっと棄てただろう。
現に、今も、ずっと棄てられ続けている。
棄てるということは、幅広いんだと思う。

棄てるんだったら、「ちゃんと」棄ててほしかった。
そうしたら、拾ってくれる存在もいたかもしれない。
誰にも拾われずに、かつがつ生き延びる力を得たかもしれない。

こういう人たちは、ちゃんと「棄てる」ことなく、繋ぎながら棄てつづけるのである。

電柱に繋がれた犬を見ると、私はいつも悲しくなる。
寄る辺なく、旅立つこともできない。
あのさみしくそらおそろしい恐怖を、必死に気づかないふりをしている気持ち。

といって、犬に人権は無いのだから、とやかくは言われない。


子供もそうだ。


子供たちは、人権を剥奪されている。

現代の日本社会で、子供たちが家畜禽獣あつかいされていることは、疑いようもない。

家畜禽獣あつかいされていないものは、「当たりクジ」を引いた子供だけだ。


動物であろうと人間であろうと、より多くの存在が、安心して暮らせる社会にしたほうがいいにきまってる。


外れクジを引いた子供たちは、運よく生き残れたものは、こうやって、じぶんのことを掴んでいこう。
私はまだふわふわしている。

親たちが被せたヘッドギアを脱げば、もっと足許がはっきりと、しっかりとするかもしれない。


書きたいことは多いけど、今日はここまでにしよう。






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posted by ひろみ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の生育歴 | 更新情報をチェックする
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