2018年04月16日

「経絡つんつん」で、ほんとうに楽になった。



わたし、ほめられていいんだね。

わたしは、とってもえらい。
ほんとうに頑張ってきた。えらいよ、わたし。

わたしは、わたしをほめられるようになった。

ここまで長かったなあ



回し者くさいのを承知で、紹介する。


EFTは、ほんとうにわたしの苦痛を和らげてくれた。
お金がないアダルト・チルドレンは、ぜひEFTをやってみてほしい。

無料で。自分で。
何処にいても、臥せっていても、行える。


EFTは肉体へのアクセスでトラウマ反応を寛解させる、
「経絡つんつん」です。


詳しくはググってほしい。
別に怪しいもんではなく、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 - にも確かな効果の実証を紹介されている方法です。



わたしは1分間ですべての悩みを解放する! 公式EFTマニュアル - をざっと読んで、見よう見まねで試してみたけど、「わたしには」、ほんとうに、直ちに効いた。
(この本、冗長で「しつこい!」って文が多いので、マーカーを引きながら飛ばし読みすると良いと思います)



本を買わなくても、EFT-JAPANの無料マニュアル(2段目のファイル)をダウンロードしてやってもよいと思います。



カウンセリングもセラピーもどうしても1回につき一万円前後かかってしまうけど(もちろん、それだけの金額を払う価値はある。)、EFTは無料だ。


自分の指があればよい。

自分の指が無いひとは、他者の指でもよい。

なんなら、頭の中で指を想像して、その指で経絡ポイントを「つんつん」する感覚を想像するだけでも、効果はあるだろう。



わたしは、ある程度EFTマニュアルの内容を一人で実践し、数ヶ月後の今日、専門家に援助してもらった。


わたしは、自分をほめられるようになった。
「一生できないかもしれない」と思っていた「自分をほめる」を、ちょっとずつ、できるようになった。

わたしにゃ、感激なんだよ。
「ふつう」にできるひとには、「そんなことで?」と思うかもしれないけどさ。

わたしをほめられるようになったなんて、わたし、すげえよ。えらいじゃん。かっこいいじゃん。
今までできなかったことを、できるようになったじゃん。すげえなあ、わたし。かっこいいわあ
どんなにうざがられたって、わたしはわたしをほめるもんね。
だってわたしは、地獄家族たちのご機嫌をとるために生きてるんじゃ、ないもんね。
そんなもんを目的に生きてたから、今まで自分をほめられなかったんだなあ。

わたしは、わたしをほめる。めちゃくちゃ頭いいし可愛いしかっこいいし優しいし時に深い覚悟を腹に決めることもできる。そしてこんなこっぱずかしいこと書いて怒られないかな、馬鹿にされないかなとか、思うけど構うもんか!って思いながらインターネットの海に、わたしをほめる言葉を、書けてる。
わたし、ほんとうに頑張ってきたね。いままでほめられなかったぶん、いっぱい「わたし達」をほめようね。

嬉しくて涙が出るの、久しぶりだ。
と言って、泣くのはまだ怖さがあるから押しとどめてしまう。
でもいいさ。これからなんだ。

わたしは絶望を抱き締めながら、希望にも手をかけていく。
希望に手を伸ばすのは、恐ろしかった。それは今もちょっとそうだ。
わたしはこれから、絶望にも、希望にも、両方の手をかけていく。
どっちも大切だからだ。

これが、わたしの、いまのやり方だ。



謙遜なんかしない。わたしはすごいんだ。わたしは、いっぱいいっぱい、みんなにほめてほしいんだ。

きっとほかの人だってそうだろう。
「ほめてほしい!」って言って、なにがわるいんだ?
「あなた」もわたしも、「ほめてほしい!」って言って、当然なんだ。
そして、いくらでもほめるんだ。
わたしはすごいって。ここまでこんなに頑張ってきた、これってなんて凄いことなんだろう。



こういうブログに直リン張っていいのかわからないので暈しますが、
東京のひとは「EFT 千駄木」でググって行ってみるといいと思います。


までも、まずはEFTマニュアルを読んで、見よう見まねで自分の身体に試してみてほしい。
それで「おっ これよくね?」って思ったら、もっと効果を出したい!と思ったら、専門家の援助(有料)を借りてもよいと思います。

もちろん、俺の指はゴールドフィンガーと化した!って人は、そのまま無料で自己タッピングを続けてもよいでしょう。



わたしは、お金の無いひとも自分の身体でセラピーをできる、EFTって素晴らしいなあと思う。











posted by ひろみ at 20:24| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

とりあえず今言いたいことをいう

こみ上げて、噴き上がるものがいっぱいあるから、いま書けそうなことを書く。


わたしは、「つらい」とか、「悲しい」とか「憤ろしい」とか、感情を現わす言葉を使うのが、使うだけで、胸がジンジンして苦しくて、燃えるようで、苦し過ぎるから、代用として、「傷ついている」という言葉を使ったんだと、気づいた。

「傷つく」だと、ワンクッション入ってる感じで、生々しい感情の感覚にオブラートを入れられて、「解離」して使えそうだから、「苦しい悲しい憤ろしい」でなく「傷つく」を使ったんだと思う。

「傷つく」は、解離のことばなのだ。


わたしは、噴き上がる怒りに、憤りに、死んでしまいそうで、苦しい。
そういう感覚は、言葉にするだけで涙が出てくる。

だから、「傷つく」を選んだのだろう。


わたしは、苦しい。




posted by ひろみ at 01:54| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年04月04日

「統合」は、あっけなかった。





「統合」の時が、わたしにやってきた。


わたしの、お母さんに殺された人格。
首を切断されて、校門の前に置かれた「あの子」。

その子と、生涯ひとつにはなれないのかと思っていたけど、統合はやってきた。


なにもドラマチックなことはなかった。



ぼーっと部屋の壁を眺めていたら、「あ、わたし、生きてるんだ」と気づいた。
その瞬間、急に視界が、クリアになった。
突然視力が1.5度上がった感じ。


『わたし、生きてるんだ。』


あの時、死ななかったんだ。


わたし、生きてるんだ。

生きてたのか、わたし。

生きてたんだ、わたし。

そう思いながら、涙が熱く溢れ出ていた。


よかったねえ、わたし。わたし、生きてるんだよ。
いままでずっと、あなたを遠ざけていたよ。ごめんね、追い遣って。
ううん、いいんだよ。そうしなきゃ、無理だったんだから。
ごめんね。ごめんね。
よかった。


あの子が。あの子だった部分が、いまや「わたし達」の「ひとつ」となって。
一緒に、生還のよろこびを、感動を味わい、震えていた。




半年前のことだ。
あまりにもあっけなくて、どう書いたらよいかためらっていた。
だが、忘れてしまうのも惜しいし、記録しておきたい。
「統合」がきた瞬間を。



ほんとうに、ドラマチックなことはなにもなかった。
アニメや映画みたいに、もう一人の人格と抱き合って感動的に云々みたいなことはなにも無くって、
ただ、同じ向きで、重なっていたものが、レイヤー統合のように、パッと、前に出てきた。
結果、視力が急に上昇したように、視界が急にクリアになった。

同じ「向き」だったのだ。
抱き合うような、そういう感じじゃない。

後ろにいたわたしが、すっと前に出てきた。
そういう感じ。

そりゃそうだ、解離してるとはいえ、後ろ向きになったり、そっぽを向いているわけじゃない。
同じ光景を、同じ角度で目撃しながら、距離だけが遠のいたり近づいたりしていたのだ。
解離する「わたし達」の関係とは、このようなものだ。

ヤバい危機の瞬間だけ、真反対の角度から見下ろしていた。

普段は、前に出ている「わたし達」と同じ向きで、後ろから静かに眺めていた。
凪いで、静止して。
半死半睡でそこに確かに存在していた。

前に出ていた「わたし達」は、怯えていた。後ろの存在に。
だが、それは被害妄想だったらしい。
「後ろ」の「わたし」は、全然わたし達のことを恨んでいなかった。

『必要だからこうなった。わかりきってることだ。』

「あの子」はとても冷静だった。怯えるわたし達の誰よりも、冷静だった。
そんなに恐縮しないでいいよ。そんなびびらなくても⋯。
恨んでないって、「支配してやろう」なんて思ってないって、どんだけわたしのことを怯えてるんだよ⋯⋯。
って呆れていた。
不思議な感じだ。

ともかく、あの子もわたし達も、ひとつのわたしなのだ。
統合して、ほんとうによかったと思う。

だが、解離してあなたを追い遣っていた後ろめたさは、まだ残っているよ。
だって、ほんとうに助けたかったんだ。それができなくて、悲しくて悔しくて申し訳なさすぎて、怖ろしくて、自分じしんを、死ぬほど恨んでいたんです。

って言ったら、あなたは「はあ⋯」って怪訝な顔をするんだろうねえ。


びびってたのは、わたし達のほうなんだなあ。



posted by ひろみ at 04:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年03月31日

飯を食ったら安心した。


そういえばあの男の顔、長兄に似ていたような気がする。
長兄を、ちょいブサイクにした顔。

やっと、夢の中で殺せるようになったのか


次兄だって、わたしを虐めていたんだ。
なかったことになんか、するもんか。
赦さない。
赦されたという現象はわたしのなかに起きていない。
それが「赦さない」という語の意味だ。


飯を食ったら安心した。
松屋の料理はどれもこれも、しょっぱ過ぎる。
「追加で温玉なり生卵なり注文して、混ぜ混ぜしてね!」というのが前提になってるような味だ。
今度からは道の反対側へ、すき家へ行ってみよう。


わたしは、ネグレクトされていただけでなく、「食物を与えない」という虐待も受けていたのか。

そらそうか。
ネグレクトされてりゃ、ご飯もありようが無い。
なのに、わたしが受けたのはネグレクト「のみ」で、摂食は問題ないと思い込んでいた。
不思議だ。

それぐらい、「食べ物は大丈夫だ」と思わないと、やってられなかったのか。


まあ、欲求が「充たされてないっぷり」は、少なく感じられるほどいいものな。「マシ」だものな。

お母さんの気まぐれで、ご飯をもらえたりもらえなかったりしていた。
と書いた途端この涙だよ。
この涙涌き出でだよ。
喉の震えだよ。
図星なんやね。
お母さんの気まぐれで、ご飯をもらえたりもらえなかっりしたことが、いまも身体の中にトラウマになっているんだね。
つらかったね。怖かったね。悲しかったね。苦しかったね。
いつご飯がもらえるか分からないなんて、殺される思いだよね。
そりゃ必死になっておっぱいにしゃぶりつくよね。
お母さんが「いる時に」飲めるだけ飲んでおかないと、摂取しておかないと、いつ餓死するか分からないもんね。
生きるか死ぬかなんだ。
それで過食衝動がビルトインされたのか。
そらそうなるよね。

なのに、お母さんは、「あんた、おっぱいばかり飲んでたのよぉ!」って、わたしを嘲笑したんだ。
ご飯で、栄養で奴隷にしておいて、わたしがご飯に、栄養摂取に必死になると、それを馬鹿にして虐められた。
生きることは、なんて酷いんだろう。

産まなきゃよかったのにね。
育てる気がないんなら、産むんじゃねえよ。
殺しとけよ。

養育する気もないのに産んで、殺しもせずギリギリ辛うじて生き残るだけの気まぐれのエサだけを与えるような奴は、条例で死刑にしてほしい。

条例で。



調教とは、こういうものだ。
「ギリギリ辛うじて生き残るだけの気まぐれのエサだけを与える」。
そうして、自らの意のままに操れる奴隷装置をゲットする。


「犬蠱」とは、そういう奴隷調教のプロセスを概念化した呪術なのだろう。
昔のひと、よくわかってんなあ。



「呪い」は、現代に棲息している。


親たちは、呪術師だ。




posted by ひろみ at 17:15| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

今やばい。摂食が

>綾屋は定型発達の「健常者」と比較し、行為のまとめ上げに膨大な時間がかかる。あるとき「ぼーっとする」「胃のあたりがへこむ」「倒れそう」「なんか悲しい」というばらばらの身体・心理感覚を自覚してから、次第に増強するそれらを「おなかすいた」という意味へとまとめ上げ、さらにその意味が「食べたい」という行為への欲求:「したい性」に接続され、そして実際に提示されるレストランのメニュー=モノのアフォーダンスと「食べたい」のすりあわせが奇跡的に完了したとき、綾屋ははじめて食べるものを注文することができる…という一連のプロセスに、放っておくと丸二日間かかってしまったりするというのである。

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2728/


やばい。これ分かる。
今そうだ。

お腹空いてるのに身体が動かない。
過食衝動が消えたいま、食べられなくなっている。
セルフ・ネグレクト。

わたしはいま、痩せていっている。
ダイエットしてるわけではなく、過食衝動がおさまった結果、「食べよう」ともできなくなってしまった。

わたしは過食衝動が「あって辛うじて」、食べることが、太ることができていたのか。
人間って不思議だ。

わたしは、過食衝動が無かったら、とうに餓死していたのかもしれない。
思えば、小学生の時から、それを薄々感づいていた。
「太れば大丈夫だよな?」と。

カレンカーペンターズの画像を見て、恐怖したあの瞬間、「拒食よりは、『こっち』へ!」と、必死に舵を倒そうとしていたのかもしれない。

食べないと死ぬんだから、問題を起こすなら「過食」へ舵を倒せ!と。


そのわたしの潜在的な恐怖は、当たっていたようだ。

楽しむのが怖い。
食べるのが怖い。

太るのが怖いんじゃなくて、「楽しむのが怖い。」
わけがわからないが、ひとまずこれはしっくりくる。

わたしは、楽しむのが怖いんだ。


楽しむのを見られたら、餌食になる。

楽しもうものなら、幼稚園の先生に、長兄に、虐められる。
手酷い虐待が待っている。

だから、わたしは楽しむのが怖い。


「どう食べたら怒られないか」ばかり考えている。
強迫的に。無意識に。


くそが。

これから松屋へ行ってやる。

うまくいかなかったら、慰めてくれよ。



posted by ひろみ at 23:20| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

ホモポエム




二十数年間。

頑張ってヘテロうとしてきたけど無理でした


ヘテれるひとたちが宇宙人に見えます

ってかおまえら宇宙人だろ?



わたしは一生懸命頑張ってきたんです

お母さんが喜んでくれるように、一生懸命ヘテロうとしてきましたが、無理でした


わたしにとってヘテるのは死ぬことと同じだったようです。


ヘテっても死なないひとたちが宇宙人に見えます


ってかおまえら宇宙人だろ?



わたしがヘテることで誰が得するのでしょうか


得するんだろ?おまえらは。




わかっているので、おまえらに資することはいたしやせん。




あらがい。


ただ、あらがい。




あらがいあり。



あらがいなくて、「自分」もない。




あらがわなくても楽になったら、「自分」も失っていいでしょう




あらがいあり。









posted by ひろみ at 20:23| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年03月09日

深夜のアレ

深夜のアレで言う、


大学二年の時にサークルで出会ったロリ顔小悪魔サイコパス女にさんざ弄ばれたあげく結婚されて秘密裏にキープされて死ぬほど傷ついて絶縁したあといつもの昂ぶりに苛まれて慰めているあいだ、ふとその女の天使のような笑顔が浮かんで「ひろみは優しくないね、私を好きなの?変態レズだね〜〜」って言われて「(そうなの、)わたしは気持ち悪い変態レズ野郎なのーっ!!!」って心で叫びながら自涜したところ心臓の芯に触れて号泣しながらこころと肉体が解放されてすっきりと気持ちよかったin地獄の家という記憶をいまぼんやりと思い出している。



サイコパスに縁の深い人生だった⋯⋯(遺言)



posted by ひろみ at 04:38| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

東浩紀は、わたしの糞親父にそっくりである。




東浩紀氏は、わたしの糞親父にそっくりである。



https://mobile.twitter.com/hazuma/status/969403892621500417



「絶対言ってないですね。宇野くんがそんなデマをばらまくまで追い詰められているとすれば、悲しいことです。 」


よくもここまで、前後で圧倒的に破綻矛盾したことばを吐けるものだ。
二重人格かな?

おまえは、どっちを信じているんだ?

一貫性なんて、毛ほども持ち合わせていないのがよく分かる。
東氏に限らず、ひとはそういうものだろうが。



「絶対言ってないですね。」
ここで宇野常寛氏を擁護したふり。

(ま、まさか彼はそんなこと言わないよなぁ〜?ここでホイホイ信じたりしたら後で怒られるよなぁ〜⋯)


(で、でももし実際に言ってたらフォロワー達に僕の見識が疑われてしまう!情報の裏を取るのもめんどくせーしここは手軽にメソついて良識人面しとこ!)


「宇野くんがそんなデマをばらまくまで追い詰められているとすれば、悲しいことです(キリッ




その場その場で調子の良いことばを発して、ただ自分が「いい人」側に立つことを最優先にふらつきまくる、良識人面糞親父。

それがわたしの父親である。




こんなクソみたいな態度取っておいて、宇野常寛氏に対する信義を守れたつもりなんだろうなぁ〜〜〜
わたしはくだんの葉書を書いて縁切りましたが。



宇野常寛氏の平素の主張を聞いてりゃ、かれが寧ろ「放射脳」を毅然として批判していたと明確にわかるのに。
ってか、Twitterで飛んでくる怪リプライなど永久にスルーしてもなんの問題もないものなのに。


その場その場で調子の良い「応じ」をしたいという欲望が、最も深く、東氏を支配しているのだろう。


Twitterは、はたから見てる分には面白いとこもあるけど、こういう奴らがハバきかせてる空間では、わたしはものを言いたくないよ。


コミュニケーションではない。
「コミュニケーションごっこ」が身体の軸をなしている奴ら。




アダルト・チルドレン諸氏は、こういう八方美人・日和見野郎糞親父の存在、馴染ましいよねっ!



「俺はお前を守る」と言っておきながら、なにひとつ守らずに家庭そのものをぶっ潰した虐待糞野郎。


奴を思い出して、胸糞悪くなったしだいである。




東浩紀氏の言行をみてるとね。




posted by ひろみ at 10:11| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月24日

お金が無くても保険証が無くても病院は受診できる。




よき情報を2つ。


借金玉@syakkin_dama氏のツイート。




わたしの考え方はこれに近い。

「ありがとう」を辞める。
「生きる」を辞める。

嫌でも継起してしまうわたしの生を、追認するだけでよい。

「生きよう」となんて、しなくていい。
だって、クソなことに。苦痛なのに、気づくとわたしは生きてしまっているんだから。
「生きる」のを、辞めよう。


「辞める」という能動性。







よき情報2つめ。





お金が無くても保険証が無くても病院は受診できる。


以下引用。
---------

社会福祉法第2条3項の九では『生計困難者のために、無料又は低額な料金で診療を行う事業』を第二種社会福祉事業として位置付けている。
政府は、病院事業者に対して、生活に困っていて医療費が払えない、あるいは医療費を払う余裕が無い人々を受診させてもらえるように事業を設けている。
この届出をした病院は、無料又は低額で医療行為を一定数行うことと引き換えに、税制上の優遇措置を受けることができる。

この届出を行い、いわゆる無料低額診療事業を実施している病院が皆さんのまわりにたくさんあることをご存じだろうか。
また、近年、この無料低額診療施設が全国的に需要があり、増加傾向にあることをご存じだろうか。

特にこの分野で永年にわたり、努力されてきて有名なのは、社会福祉法人恩賜財団済生会である。
皆さんのお住まいの周辺に、済生会○○病院や○○済生会病院はないだろうか。

そして、済生会以外にも多くの病院が無料低額診療施設として登録されている。

たとえば、東京都内の無料低額診療施設は、東京都福祉保健局のホームページに一覧が掲載されている。

他にも大阪府内の無料低額診療施設は、大阪府福祉部のホームページに一覧が掲載されている。

他の道府県については、「無料低額診療施設」を検索し、ホームページを参照いただきたい。

そして、実際に受診される際には、各無料低額診療施設の医療相談室に、訪問または連絡をしていただき、【医療ソーシャルワーカー】、あるいは【医療相談員】と呼ばれる人に事情を話してみてほしい。
これらの相談員は、守秘義務(秘密を守る義務)があり、あなたやあなたの周りの事情を聞いて、それを関係のない第三者に漏らすことをしない。

一人でも多くの人が病気で苦しむことなく、悩みから解放されることを願っている。

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藤田孝典
NPOほっとプラス代表理事 聖学院大学人間福祉学部客員准教授
1982年生まれ。埼玉県越谷市在住。社会福祉士。首都圏で生活困窮者支援を行うソーシャルワーカー。生活保護や生活困窮者支援の在り方に関する活動と提言を行う。NPO法人ほっとプラス代表理事。聖学院大学客員准教授(公的扶助論など)。反貧困ネットワーク埼玉代表。ブラック企業対策プロジェクト共同代表。厚生労働省社会保障審議会特別部会委員。著書に『貧困世代 社会の監獄に閉じ込められた若者たち』(講談社現代新書 2016)『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃』(朝日新聞出版 2015)『ひとりも殺させない』(堀之内出版 2013)共著に『知りたい!ソーシャルワーカーの仕事』(岩波書店 2015)など多数。
twiter:fujitatakanori
facebook:takanori.fujita.5

お金が無くても保険証が無くても病院受診する方法!



posted by ひろみ at 03:55| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年02月14日

私は高校時代ネットウヨクだったんだが、




ある時、学校からの帰り道、駅へ向かう途中でザアザア大雨に降られた。


わたしはコンビニ傘も買おうとしなかった。
寒いのに。


「わたしは雨に濡れてもいいんだ。」と思っていたからだ。


なんでか?


クソジジイが「我慢大会こそ美徳だ!」とわたしの身体に叩き込んでいたからである。


わたしは、親たちに調教されていた。



制服で、ずぶ濡れで歩いていた。


すると、慌てた様子で女のひとがやって来て、わたしに、サッと傘を差しかけてくれた。


なにか話して、「身体を冷やすのはよくないです」と言っていた。


わたしは、こころが、身体も躍って、喜びを感じた。


そのひとは韓国から来ていて、近くの大戸屋でバイトをしている、と言った。


駅に着いたので、わたし達は笑顔で別れた。




その出来事がある前から、わたしは、
「あの国は許せんが、実際にそういう酷い言葉(ヘイトスピーチ)を、本人たちに見せるのはどうなのか?」という疑問を抱いていた。

ネットの中の「奴ら」と、実際に呼吸をしてご飯を食べているであろう「わたし達と同じ人間の」姿をしている、存在は、なんか、次元が違うんじゃないかと、ぎこちなく思っていた。


だからその出来事が決定的になにかわたしに働きかけたか?はわからない。


いや、むしろ、その出来事に喜んだ気持ちのなかには、「やっぱり、そうだよね!」という、自分の抱いていた疑問が、当を得ていた。という嬉しさもあった。



わたしは、いまも、あの時傘を差しかけてくれたあの女のひとを、いとしく思っている。



わたしに、あんなふうに、シンプルに、こころと身体を、だいじに想ってくれたひとが、あのとき、いただろうか?


当然、「家族」の中にはいなかった。



なにかだいじな存在をだいじに想うとき、その個、たった一人だけでなく、「そんなひとがいてくれるような世界」そのものを、嬉しく思って、
この、抽象化された「世界」、「みんな」と、温かさを分かち合いたい、とおもうのではないだろうか。


わたしは、こころと身体を、だれかに気遣ってもらえたら、嬉しい。
それが、「いい人に見られたい」強迫衝動に駆られているのではなく、ほんとうに、ただ、シンプルに、わたしのいのちを、だいじに思ってくれてるんだな、と感じられたら。



それをしてくれたひとのことを、いま、思い出している。



posted by ひろみ at 20:39| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする