2017年09月04日

柴田英里さんはすごい。

柴田英里さんはすごいなあ⋯

昔、わたしは柴田英里さんを妬んで、悔しく思っていた。

しかし、自分がお母さんから、そして家族全員から受けていた性虐待を認めたいま、
わたしは、柴田英里さんに嫉妬していたんだと、羨んでいたんだと、認めざるを得ない。


柴田英里さんは凄い。尊敬する。
そして羨ましい。


まずは認めよう。




追記:

わたしは柴田絵里さんの感覚と田房永子さんの感覚に3:7ぐらいの割合でそれぞれ共感しつつ、
べつな感覚から、コンビニのエロ本は、カーテンかけるとか、背表紙しか見えないようにするなどしてゾーニングしてほしいと思う。

理由は、わたしが興奮してしまうからである。

わたしは、〈見られる性〉〈女性性〉的な被害感覚とともに、〈見る性〉的にこころが「おっ⋯///」と不意打ちで興奮させられることに気恥ずかしさを感じさせられるため、勘弁してくれや!と苦々しく感じることがある。

性的に興奮させられることは必ずしも不快なばかりではないけど、その「タイミング」と「度合」を、著しく他者にコントロールされたくない、と思う。

わたしだって、「今日はお上品に、爽やかな少年ハートの気分でいたい❤️」という時もある。
セクシーなCMは「ぐへへ⋯」となるけど、
不意打ちで『エロ漫画でい!』って迫力でエロ顔&おっぱいに迫られると、わたしのなかのウブなハートが「きゃーっ!」となってしまい、たいへんきまりわるくなる。

そういう点から、
わたしは、「コンビニのエロ本は、『不意打ちで』エロ表紙が目に入ってこない程度に、ゾーニングしてほしい。」と望みます。



KARAの尻振りダンスをテレビで目の当たりにしたその瞬間、自分が発情期の野生動物になったようなあの衝動・感覚は、いまでも忘れられないな。
あの衣装と振り付け考えた奴、ネ申だろ。
あんな、「発情」としか言いようのない感覚になったのは人生で初めてだよ。

コンビニに入った時ぐらい、「不意打ちで」発情期の動物にはさせられたくないっすよ!
興奮した自分の顔を他の客や店員に目撃されたくないっすよ!!!





posted by ひろみ at 22:38| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年09月03日

「おまえはあそこで死んでるはずだろ?」って当惑している。

画面に映った27歳のつかれたわたしを見て、「なんでこんなに生きてるんだ?」って思った。
このひと誰?って。
あの時の、小学二年生のわたしが、画面の中のわたしに、あなた誰?って思った。
わたしじゃない。わたしは小学二年生なのに、小学二年生で死んだのに、
今を生きて、27歳の、相応のくたびれと衰えを湛えているわたしの顔を見て、これはわたしなの?と思っている。
なんで生きてるの?生き永らえてるの?あそこで死んでなくちゃおかしいんじゃないの!?って興奮している。
わけわかんない。なんで生きてるんだおまえ!!って憤ってる。
どうしてあそこで死んでいないんだと。責めるよりも困惑している。わたし、死んだんじゃなかったの?
記憶がなくなったわけじゃないが、これまでの記憶が、ヴァーチャルリアリティのように、ぼんやりとなっている。
小学二年生のあの時から、わたしはずっとヴァーチャルリアリティに生きていたんだろう。
かといって、小学二年生のあの時が克明に蘇ったわけじゃない。
あの瞬間は、依然として、解離の断片の中に遠ざけられている。
でも、統合が進んでいるのを感じる。感じられないのに、肌一枚の向こう側にぺったりと迫っているのを感じる。
最後の一線を、わたしのselfが、しのごうとしている。
これまで、それが存在することすら、ぼやかさなければやっていけなかった。
でも、いまは、存在することだけは、認めるしかない。
はやく統合したいけど、「統合したら大変なことになる!!!」と叫んでいる「わたし達」もいる。
そのわたし達の言い分ももっともだから、だってこれまで実際にそうだったから、いま急かすことはしない。

だいじょうぶ。統合は、ゆるやかに。
わたしのペースで、いいんだ。










可愛い赤ちゃんの姿なんてクソくらえだ。
グロ画像のように、目を剥き出して、ゲロを吐いて、全身を引き攣りながら虚空を、なにも見つめていない赤ちゃんだったわたしがいる。
醜く、当惑して、絶望している赤ちゃんだっている。
ネグレクトされた赤ん坊の顔を見た者は、誰もいないだろう。

ネグレクトされているんだから。
一顧だにされていないんだから。
でもいる。わたしがそうだ。あの瞬間のわたしの姿を、見た者は誰もいない。でも、あの瞬間、わたしは存在していた。

可愛い、幸せな、希望に満ち溢れていますって顔をした赤ん坊や、子供しか見たくないんなら、日本なんて滅んだって構わん。

汚い、醜い、絶望に嗚咽する子供たちの姿を見る覚悟もないんなら、
そんな国家は不用だ。要らん。


醜い子供の姿を見たくないんなら、殖えるんじゃねえ。
人口なんぞ衰滅しろ。
子供の真の姿と向き合うつもりのない社会なら、滅んで然るべきだ。
「家族」の幻覚を見ながら、ゆっくりと死んでいけ。


わたしは国家でなく社会でなく家族でなく、
身体を取り戻したい。


わたしの身体を、取り戻したい。


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仮面ライダーアマゾンズseason2のラストに怒る。


マモルくんが死んだ。

駆除班の奴らの無神経さに腹が立つ。

マモルくんが圧裂弾からオリジナルを庇って死んだのに、その思いを全く無視して、
五円玉の残骸を拾って「マモルは俺たちのもとに戻ってきたんだ。」とかぬかしながら気持ち良い哀涙にむせぶ駆除班の奴らの、都合のいい神経っぷりに失望だ。それまでは、「ああ⋯」と感動していたのに。

マモルくんは「自分と同じ境遇の仲間を殖やす胤」が無いと自分は生きてはゆけないと感じていたから、自分の命を懸けてでもオリジナルを護ったんだよ。

「たとえオリジナルがいなくても駆除班のみんながいれば自分は生きていける」と感じていたら、殺されるまでもなくお前らのもとに戻ったさ。

でもマモルくんは最期にオリジナルを護ろうとして死んだ。
マモルくんにとって必要なのは、オリジナルだったんだよ。

その意味を一瞬たりとも考えることをせずに、自分が気持ち良い物語を一瞬で構築して感傷の涙に耽る志藤さん達には反吐が出る。

人間ども死ねという気持ちを煽ってくれる良いドラマだった。


悠にもがっかりだよ!
season1では悠を応援したんだが、すっかり「名誉人間様」になっちまったな。
死体のままで生きてなにが悪いんだ。わたしは死体でありながら、それでも生きているんだ。
アマゾン達を護りながら、「イユを眠らせてあげよう」とか吐かす悠には、なんかきもい聖人性を感じる。

あと鷹山とかいう虐待おっさんに「良いお父さん」とか言い出した七羽さんに驚愕ですよ。唖然としたわ。
あんたが甘やかすからこの死にたがりおっさんがなぁ!!!!!

千翼くんが可哀想だわ。
七羽さん、あんた千翼くんを護ってねえよ。むしろ間接的に死地へ送り込んでるよ。

悠と鷹山が生き残って、マモルくんと千翼くんが殺されるなんて許せねえ過ぎる。
千翼くんには生き残っていてほしい。

season3では「人間」に酔った人間どもをさらにアマゾンに覚醒した千翼くんが殺戮の限りを尽くして、屠ってほしい。とわたしは望む。


やっぱりわたしは「人間」なんかじゃなくっていいや。
人間はさっさと脱構築されるべきである。

わたしは命だ。
人間なんかクソくらえだ。


わたしは命だ。人間なんかじゃなくっても。
それがいいんだ。

わたしは命だ。


posted by ひろみ at 01:50| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年09月02日

『∀ガンダム』はわたしの性癖である

∀ガンダムにはわたしの性癖が燻る。

たまらん。


女神に弱い。



ラストが特にいい。



好きな人の墓守を言いつけられるなんて。


好きな人のお側に一生仕えつづけるなんて。

でもロランくん、指一本触れさせてもらえないんだろうなあ。
一生お仕えしながら、生涯、一度も、やらせてもらえないんだろうなあ。

でもディアナ様、キエル様とはやりまくってるよな。
ありゃもう、戯れるように、逢うたびにおやりまくり合われているんだろうなあ。

やってるよな?キエル様とディアナ様。
ディアナ様とキエル様が濃厚に戯れ合われているのをロランくんは扉の外側で息を潜めながら聞かされてるんだろう


でも一度たりとも二人の間には入れてもらえないんだろうなあ。
興奮するなあ

ディアナ様とキエル様はやってる。


生涯ディアナ様にお仕えして、一度たりともやらせてもらえない
ロランくんが羨ましい。


そういう性癖である



posted by ひろみ at 22:17| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

「名誉女性」が現れる。


「名誉男性」ならぬ、「名誉女性」もいるよな。

今の社会状況で、無意識に「名誉女性」たらんと志向してしまう男性がいるのは無理もないと思うけど、

良い子ちゃんしたくて自罰的になる名誉女性さんに、わたしも、同情と共感を抱きつつ、
「良い子ちゃんしたいんですね。」と揶揄したくなる気持ちがとまらない。


自罰はサドマゾヒズムである。
していることが、「自罰」寄りか、「自問」寄りか。
立ちどまって問う癖をつけると、苦しい渦から抜け出しやすくなる。



しかし、今の社会状況で、「名誉セクマイ」は現れていないように感じるのを思うと、
やはりそこの分断線はあるよね。わかるわかる。


〈女性〉の地位は、やはり相対的に上がりつつあるということなのだろう。
それ自体はよいことである。

〈ヘテロ女性〉の地位は、相対的に上昇している。



よく、「レズごっこ」「なんちゃってレズ」、等と揶揄するひとがいるが、そら違うやろ。
「なんちゃって」だろうと自称できる時点で、そのひとはクィアの身振りをならい始めているんだよ。

半笑いでも自称し始めているひとに、「踏み外した」足場にみずからを位置づけ始めているひとに、「なんちゃってだ!」などと的外れな批判をするのは、やっかみでしかない。

嫉妬でしょう。
クィアに踏み入れ始めているひとの、
脱皮してゆくその揺らぎに、不安と羨ましさを、感じているんだろう。


「名誉セクマイ」は、今後現れるのだろうか?
わたしは、現れないような気がする。
なんとなく。


自称アライさんたちは今後徐々に増えていくだろう。


やはり、これからは「自称善意」が新たな壁となって立ち塞がる。



これから、「良い子ちゃんする男性」に、良い子ちゃん「できない」男性がフラストレーションを溜め、憎悪のかたちはさらに濃縮していくだろう。

誰が悪いということもなく。



私は、
「わたしは、つらいんだ!〈男〉を演るのは、こんなにも苦しいんだ!!」と声を出して泣き叫ぶひとが好きだ。





posted by ひろみ at 20:14| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

なんか、インターネット

なんか、インターネット、
特にSNS(そして特にTwitter)などで、

毒にも薬にもならない良い子ちゃんフェイスをした、うわべの当たり障りのないゆるふわ肯定発言(※)、『友』発言か、
対象を完全に徹底的に叩きのめして抹消するために、必死ささえ漂う呼吸で侮蔑し悪罵するマウンティング罵声、『敵』発言の、

二極に分断されたことばしか出せなくなっているひとが、とても多くなっている。


「敵か。味方か。」以外の存在を絶対に認めない。ということば。


「お前は、味方ではないのならば、絶対に敵だ。」
「お前は、敵ではないのならば、絶対に味方だ(な?)。」


「わたしはあなたの敵でもなく、味方でもないが、状況によっては、わたしはあなたに寄り添いうるし、あなたもわたしに寄り添いうるだろう。
同時に、状況によっては、わたしはあなたに逆らいうるし、あなたもわたしに逆らいうるだろう。」



ということばを、絶対に許さない。認めない。ということば。
そんな存在は、絶対に認めない。


「どちらでもない、どちらでもありうる。」など、恐くて恐くてたまらないのだ。


「自分を殴るひとか。自分の奴隷になるひとか。」しか、世界にはないのだ。




そういう「世界」に、ゆらぎの性は、たいへんに馴染まざるものだろう。




※肯定「的」と、「肯定」は、違う。
posted by ひろみ at 23:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

人類が「産まなく」なれば、きっとわたしは楽になる。



人が、「産む」ということをしなくなれば、こんな苦しみから、少しは解放されるんじゃないだろうか。

わたしは、人間の肉体から独立した、人工子宮の開発を、こころから望んでいる。


そして、育児ロボットの開発を、せつに、切に望んでいます。
精密な育児ロボットなら、壮年だって、中年だって、わたしにだって、愛着を与えることができるでしょう。

少なくとも、わたしのDNA上の親たちよりは。


わたしは、テクノロジーの発展がいつか来たることを熱望します。


数百年後、もしかしたら数十年後には、

「えっ あなた、自分の子宮で産むの!?変わってるねー⋯⋯マゾヒストなの?」って

ドン引き顔で聞かれる時代が、来ると思いますよ(確信)。


「えっだって、ヘタしたら死ぬでしょ?股切開するって聞くよ!?そういうフェティシズムなの⋯⋯?いや、まあ、人は色々いるって言うけどねぇ、いやぁー⋯⋯そういう人がいるんだぁ(笑)。」

「いや、まあ、個人の自由ですからね(笑)。⋯⋯でも、産まれてくる子供の人権上、どうなんですか?あなたの好奇な、身勝手な趣味のせいで、死産させられる可能性を増やされる子供の立場は?考えない?⋯⋯はぁーん⋯(白い眼)。」


「テクノフォビアの、差別主義者!」と。


「子宮で産ませる!?あんた女をなんだと思ってんの!?この人でなし(ビンタ)!!!!!奥さん可哀想⋯⋯(通報しなきゃ⋯)。」



ともすると、

「妊娠する危険性があるのに、違うsexのひとと性交するなんて、よっぽどのことなんでしょうね⋯⋯?」

という視線がデフォの時代が、くるかもね?



いつか?


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2017年08月13日

1人暮らしに調理バサミと電子レンジ調理器は必須だ。

調理バサミでザクザク切った茄子を、
https://www.amazon.co.jp/dp/B004WAFMLG/にぶち込み、
ツナフレークと混ぜて電子レンジで4分半。

好みでにんにくを混ぜたり醤油を振りかけたり、粉チーズを振ったり。

ごま油だけを絡めてただチンしても、トロットロで美味しい。


一年半ぐらい、9割がた電子レンジ調理器でごはんを作っている。
ガス代はお風呂以外に掛からない。

暑いのにガスコンロの前に立つなんてきついっす。
調理器具がそのまま食器になるから、とても楽でいい。
目玉焼きとお好み焼きはこのレンジクックで作るのが1番快適だ。
しかも美味しい。


まな板を使って洗うのが面倒だからもう、ほぼ調理バサミ。
肉を切るのも野菜を切るのも、調理バサミってなんて便利なんだ。
長ネギなんかちょきんちょきん、葉物野菜も食べる分だけジョキジョキ切って使う。
包丁が原始時代の道具に思える。
1人暮らしに調理バサミは絶必であろう。


食器はほとんど樹脂やプラスチックだ。
落としても割れない、軽い、プレッシャーのなさがいい。
最近のはデザインもいい感じのが多い。


パスタをチンするのが面倒くさいときは、コンビニで売ってるうどん玉をチンして、パスタソースを絡める。
きのこバター味とか良く合う。

posted by ひろみ at 01:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

神を、飼おう。

他人の欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それ、わたしの欲望じゃない!


お母さんの欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それを、わたしは自分の欲望だと勘違いしている。



ラカンは「すべての欲望は、他者の欲望を模倣するところから始まる」と言っているらしい(未読)けど、

じゃあ、「すべての欲望のはじまり、原欲望みたいなものは、どこから来たの?」という疑問がある。


「わたしの欲望」だって、あるんじゃないの?

お腹が空いて、食べ物を食べたいとか、わたしの欲望じゃないの?

それとも、誰かに「食べさせられて」、初めてわたしは「ものを食べたい」という欲望を刷り込まれた、ということなんだろうか。

赤ちゃんのわたしが、「食べたい!」と望む前に、
誰か(おそらくは母親であろう)が、わたしに「乳を飲ませたい。」と欲望して、わたしに飲ませた。
そして、わたしは、「食べる」という快楽をまなんだ。

食べる、食べさせられる。

「この子に食べさせたい。」という他者の欲望を注がれて、
その他者の欲望を取り込むと同時に、わたしの中に「食べたい(食べさせられたい)。」という欲望が生じた。

この瞬間、たぶん、わたしのなかで「食べる」と「食べさせられる」の違いはなく。
感覚のうえでも、それが他者の欲望であるのか自分の欲望であるのか分からない、曖昧である、
そもそもその境界線が存在しない。という世界にいたんじゃないだろうか。

そして、「食べさせられる/食べる」の欲望をまなんだわたしは、お腹が空いたり口寂しくなったら、大声で泣いて、誰かを呼ぶようになった。

しかし、それを見た、聞いた他人(主に母親)は、「この子が食べたがっている。」と解釈して、
「乳を飲ませたい。」と欲望し、乳を飲ませる。

その行為自体は、「食べさせられる/食べる」同位体とでも言うべきものだろう。
つまり、どちらにも解釈できる。
どちらかが誤りであって、どちらかが正しい、などということはない。
「食べさせられる」であり「食べる」であるところの行為が、この大人と赤ちゃんとの接続体に発生している。

大人にとっては「赤ちゃんによって、与えさせられる」であり、赤ちゃんにとっては「大人によって、食べさせられる」であるところの行為が。

どちらも、相手に「やらされている」という感覚を持っている。



やはりすべての生き物は生きさせられているのであり、
しかし、自分の力ではどうにもできないこれを、「自分が望んでやっている」とは、到底感じられない。

自分の力ではどうにもできないこれを、させている「誰か」がいる。

誰か、「他者」だ。

こうして、「他者」は生まれた。いや、「生まれさせられた」。


「他者」は、「生まれさせられた」。




とにかく人は、自分の力ではどうにもできないことを、自分の所為だとは到底感じられず、かといってそれを為している「主体」が、どこにも存在しない。設定できない、というのが、耐えられないんだろう。

だから、架空の「他者」を生み出す。

それは、「神」に近い。


この「神」を信じられないとき、信じたくないとき、人は、手近な人間なり石なり動物なりの「せい」にするんだろう。
だれか、ほかのやつの「所為」に。


なにか、自分にはできない凄いことができる他者、というのは「神」なのである。

それは、ほんらい、親でもなく子供でもなく、「神」としかいいようのない存在でしょう。
架空であっても。


しかし、神には「実体」はないから、それに人は耐えられない。

どうしても、「実体」のある神を求めたがってしまう。わたしだってそうだ。

だから、「実体」を持っている「自分にはできない凄いことができる他者」をみた途端、
「このひとは神だ!!!」とLOVEモードに入ってしまう。


だがちょっと待ってほしい。
そのひとは確かに、「自分にはできない凄いことができる他者」だ。


しかし、全知全能の万物主だとは一言もいってないんだよなぁ⋯⋯。


でも、でも、だって。


人は、「実体」をもった、「全知全能の万物主」が欲しくてたまらないのです。


でも残念ながら、そいつに、実体はありません!!!!!!!!!!!
残念ッ!!!!!


ないもんはないんだから仕方ないだろうが!!!!!!!でも欲しいよね。


でも、何度言っても足りないが、「全知全能の万物主」に、「実体」はないんだよ!!!!!!!!


科学でも数学でもいかなる実証学でも、観測できはしない!!!



だってそれは、わたしのこころのなかにあるんだから。


それは、自分の力ではどうにもできないものと初めて出会ったとき、わたしが最初に生み出した、
「わたし達」のうちの一人
なんだ。


きっとそれは、赤ちゃんの時に。


わたしは、自分の力ではどうにもできないものと出会った瞬間、恐怖しました。そして、次の瞬間、神さまを生み出しました。


わたし達のなかの、「なんでもできるだれか」というひとつの人格です。


「なんでもできるだれか」をこころのなかに生み出したわたしは、安らぎました。

困ったことがあったら、この「なんでもできるだれか」に、頼ればいい!

そう思うと、ほっと安心したのです。


だが、困ったことに。

この「なんでもできるだれか」は、姿を現してくれないのです。
音も立ててくれないし、触ることも、しゃぶることもできないのです。
怖いです。


ふだん、人は、解離しています。
この世に、解離していない人などいません。

日常生活を送るには、何を食べようか悩んだりどこに行こうか悩んだり何時に出ようか悩んだりする、「前のわたし」に意識を移して生活しなければならないからです。

「前のわたし」に意識を移していると、「後ろのわたし」に意識がいかなくなります。

しかし、
神さま、「なんでもできるだれか」は、「後ろのわたし」のなかにいます。
ゆえに、「前のわたし」がフル回転して活動しているとき、「後ろのわたし」、「なんでもできるだれか」は、意識の中でお留守になります。

わたしは、怖くなりました。
「なんでもできるだれか」がいなかったら、わたしがお腹が空いた時、寒くて凍えそうな時、天敵とであった時、大怪我をした時、どうすればいいのでしょうか?


死⋯⋯?


耐えられるわけがありませんでした。
堪え難い死の恐怖に襲われたわたしは、「なんでもできるだれか」を、「実体」のある存在に投影しました。

その、最初のひとが、母親でした。
べつに、そのひとでなくてよかったのです。
自分の一番近くにいて、自分にご飯をくれたり温めてくれたり護ってくれたりする可能性のある存在であれば。
ロボットでも。植物でも。養い親でも。父親でも。
何でもよかったのです。

ただ、
そのときは、たまたま、母親しか、相対的に長時間近くにいてくれる存在はありませんでした。

だから、「なんでもできるだれか」を、母親に投影するしかなかったのです。
偶然に。
無意味に。

無理由に。

無原因に。

無根拠に。

たまたま。この時代の、この国では。母親しか、相対的に長時間、そばにいて世話をしてくれる可能性のある存在が、それしか、いなかったのです。

だから、わたしは、「なんでもできるだれか」を、母親に投影しました。
「神さま」を、母親に投影しました。

そうするしか、なかったのです。

ですが、「現実」との乖離は、わたしを苦しめました。
苦しんで苦しんで苦しみぬきながら、なんとか、今日に至るまで、生き残ってくることができました。

それは、ひとえに、偶然と、わたしの頑張りのおかげでした。
偶然だけではなく。わたしの頑張りだけではなく。

偶然と、わたしの頑張りの、どちらもがあって、やっと、生き残ることができたのです。





自分のケアを、ある程度、自分でできるようになったわたしは、

「わたしだけの神さま」を、わたしのなかに飼おうと思います。


目に見える実体に、「なんでもできるだれか」を投影するのを、辞めて。


わたしは、


「わたしの気持ちと身体に、とことん寄り添ってくれる人格」を、飼って生きていきたいと、望みます。






posted by ひろみ at 04:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

いいぞどんどん言ってやれ >すべての人へ。




わたしは言いたいことを言いまくってやりたくて(半)匿名でことばを書いているけど、実名を明らかにしてものを言うのは、どんなにか勇気のいることだろうと思う。


‪私は、パレーシアするひとを‬‪尊敬する。‬

‪顕名で生き恥を晒しているネットウヨク的な人々もいるが、それはそれで懸命に生きているのだろうとは思う。尊敬はできないが。‬

‪とにかく、言いたいことを言うのは気持ちがいいものだ。‬

‪言いたいことを言えばいいのだ。みんな。‬
‪言いたいことを言って逮捕される国でない限り、匿名でくらい、言いたいことを言えばいい。みんな。‬
‪言いたいことを言うのは最高の健康法だ。‬

‪糞親たちを見よ。‬
‪サイコパスお母さんたちの、究極の言いたい放題っぷりを、そのイキイキっぷりを、もっと見習っていい。‬
‪ほんと、言いたいこと言いまくってるからあいつら、健康なのよね⋯⋯死ねばいいのに。‬


‪話がちょっと逸れた。‬


‪わたし達が奪われたのは、「ことば」だ。‬
‪「ことば」を、取り戻せ。‬


‪わたしは、千葉雅也さんのパレーシアに、こころからの、「よっしゃあ!」を送る。‬





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
‪これを言うかは長く迷っていたんだけど、僕の文脈を知らない読者も増えたし、「我々」の時局も時局だから、前提を示した方がいいだろうと思って言うと、僕はゲイとして生きてきました。正確にはバイセクシャルな面もあるので、ほぼゲイとして。これまで、その立場から社会的発言をしてきました。‬午後10:08 · 2017年7月27日


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
こういう言い方もアレだけど、ゲイの知識人としての役割を果たす必要もあるな、と思ったわけよ。フーコーだってそれをやった。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
歴史との格闘だな。カッコつけてばかりもいられない。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachib‬a
‪まあ、このアカウントは親が見てるから、あちゃーと思うだろうなあ。いやはや。‬

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachib‬a
しかしそれも本当「我々」にとっては問題でね。子の親に対する葛藤というのは古い問題系で、むしろ親から子へ、という東さんの理論方針はある種の非精神分析として大事なんだけど、こっちとしてはやっぱ親の問題はデカいわけですよ。


ほんっとそーなのよね!!!!!!!!!!!!!
親によるヘイトクライムの被害者となった子供たちで、集団訴訟とかできませんかね!?
ファーストレイプもセカンドレイプもサード(ry)喰らってるんですけど、親を法で規制しろよ!!!!!!!
だから東さんの提唱する「新しい家族」なる概念も怖気走ってしょうがないんですよね!!!!!!!!

「私たち」は、「家族」というだけで、反吐が出るんですよ!!!!!

どんなに素晴らしい概念でも、「家族」と名付けられた時点で、蕁麻疹が出て、虚脱状態、呼吸困難に、「生理的に無理」になる人たちの気持ちも、思い知らせてやりたいぐらいだなぁ!!!

そのくらいの覚悟をもって、「家族」ということばを選んでるのか、疑問ですね。
べつに東さんに恨みがあるわけじゃないが、そんなふうに簡単に、気軽に(と敢えて決めつけさせてもらう。)「家族」ということばを使える時点で、
「ああ、わたし達とは全く彼岸の世界で生きてらっしゃるんだなあ⋯⋯」と疎外を覚えるんだよ。
この事実を、思い知ってほしいね!!!


「家族から擬似家族へ」とかって、「家族」という名がついてる時点で、地獄への再回帰にしか感じられないんだよ。

こういう、「名前」の問題って、大事だぞ。
「家族」じゃない、新概念じゃだめなん?



だいたいセクマイ当事者は往々にして親に対して弱腰なんだよ!!!!!!!
そこは私、憤ってるぞ!!!!!

「あなた何も悪くないやん⋯」ってことで「親に申し訳なく」思っているセクマイ達のことばを聞いて、どんなに(他人事ながら)忸怩たる思いを噛みしめているか!!!

「ぶち◯すぞ(共謀罪対策)ヘイトクライマー!!!」と叫んで糞親に中指を立てる気概が足りない!!!!!

気概をもて。
親よりも、はるかにあなたの尊厳のほうが大事なんだよ!!!!!!!!


まきむぅはアダルトチルドレンの自認をもったほうがいいと思う(お節介無礼発言)。



千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
僕はストレートのアライの立場には基本的に懐疑的です。というのは、彼ら自身の承認欲求が大きくあるのでは、と思うからです。今日、LGBTを支援することはほとんど「絶対的な善」であり、そうすれば絶対的に承認される。絶対に外れない「承認馬券」を買うようなものだからです。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
今のはいくらなんでも悪し様に言っているけど、つねに承認の偶発性で揺らいでいる当事者の立場からすれば、こっちにすり寄ってくるアライは盤石な立場で結構なことですねえ、という思いがあるというのが正直なところ。まあ、必要な存在ではあるけど。って言うと冷たいが、それがこっちの感覚だな。


‪わたしは、‬「アライ(同盟者・味方)」という言葉に、ペテン師の臭気を感じる。
なんと他人事感丸出しの、お為ごかしの、「好意ある善人でございます。」上から目線オーラ溢れることばだろうか。
「私は君の味方だよ!」と自称しながらにじり寄ってくる奴の、鼻持ちならない詐欺師臭を、自身では感じられないのだろうか?


あんたが私の味方かどうかは、私自身が判断する。
あなたが決めることじゃない。勘違いするな!


という思いを、「アライ」という言葉に感じます。


名乗るんだったら、「脱ヘテロセクシスト」「クィアストレート」とか、どうでしょうか?



そもそもなあ。


自分はホモだと絶対に思われたくないけど、『マイノリティに優しい善良な市民』の服は着たい!自分は絶対にホモだと思われたくないけど。」


って願望が見え見えなんだよ!!!!!!!!


「私はあなた達を差別しませんよ!私自身は絶対にホモだと思われたくないので『ストレートだけどホモに味方する人』という造語をわざわざ作って世間に流布はしますが、『ホモのあなたたち』を差別するような酷い人達とは、私は違うんですからね><!!!」

って言われてセクマイが喜ぶとでも思ってるのかな?
無礼(なめ)てんのか?


「味方」を名乗りたいなら、自分もホモだと思われる覚悟をもてよ。


ホモだと思われる覚悟もなしに、
「同類」だと、「お仲間」だと、十把一からげに差別される覚悟もなしに、
「脱差別」の旗なんぞ掲げるな。


「私たち」が戦っているのは、その「十把一からげ」なんだよ!


このヘテロセクシズムの世界を攪乱し、動揺し、内破したいなら、
自分に負わされた「十把一からげ」の衣を、「これも面白いじゃん?」と笑って肩脱ぎに掛けていく、「身振り」が必要だ。

差別者たちは、その朗らかな「引き受け」に、戦慄し不安に襲われるだろう。
足元が、動揺させられる。

軽やかにスティグマを着こなして、かぶいて魅せる出で立ちこそが、「しるし」を無意味に、たんなる模様へと変えていく。

スティグマを空洞化するその手伝いをしてくれるなら、「おっ ありがとさん。」と思えるんだがねぇ?


決して「味方」には、なれんでしょうな。
「アライ」を名乗っているかぎり。





言いたいことを、言ってやる。




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