2017年08月04日

永田カビさんと同じ症状が出ている。

永田 no moreスマホ破損 @muninini 6月18日
お母さんのいい子に戻りたいと思う気持ちよ


ちょうど、永田カビさんと近い時期(私は2016年4月に出ました)に毒ホームを出て一人暮らしを始めたため、今まさに同じ症状が出ている。シンクロしてるよ!

ちなみに初めてレズ風俗行ったのも3〜4年前で、おそらく(偶然)近い時期に初風俗体験したんだなあ。
だが大きな差はある。







まあいい。いつかは⋯⋯いつかは⋯⋯!そして生涯を迎えそう


で、症状(と呼ばせてもらう)の話なんですが、

どんなにきっぱりと、行動のうえで親達と決別していても、
こころのなかには、共依存フルな「わたし達」がいるわけじゃないですか。
その共依存フルな「わたし達」は、死んではいないわけです。
殺したいと望むんではなくて、その「わたし達」に、
「だいじょうぶ。もう、共依存しなくていいんだよ。
もう、お父さんとお母さんに嫌われても、殺されたりしないよ。
どんなにお母さんとお父さんに嫌われたって、わたしは生き残れるんだよ!」

と辛抱づよく説得して、その「わたし達」の信頼を勝ち取れるように、
行動のうえで、はっきりと実践していかなくちゃならない。

行動とは、まず、

わたしをケアすること。

わたしの気持ちを聞く。
お腹が空いたら食べて、トイレへ行きたくなったら行って、夜は歯を磨いて、フロスをかける。
病気をしたら病院へ行って、お風呂に入って、アトピーの肌をケアする。

そして、お母さんの誘惑を拒絶する。

これが大事だ。
ただ、なかなか難しい。

優しい顔をしたくなる。
なにも、傷つけたくって、親達を傷つけているんじゃあない。
少しは、傷ついてほしいという思いもあるけど、
大部分は、やっぱり、お母さんとお父さんを、傷つけたくない。できるならば。


できるならば、と思ってしまう。できっこないのに。

できっこないんだよ。
そうできるんなら、どんなにそうしたいか。

でも、傷つけないと、わたしを護れない。
そういう人たちなんだ。

わたしを一人の人間として、人権を持った主体として扱ってくれる人となら、わたしも、小さな行き違いで互いに傷つけ合ったとしても、

相手の、お互いのほんとうに大事な部分は、踏み躙らないように、不必要に傷つけないように(傷つける必要がある場合もある。どんな相手とも。)、憚りながら、でも信頼しあいながら、やりとりを続けていくことができる、と感じている。

でも、それお母さんとお父さんは、できないんだよね。わたしに対して。
不能なんだよね。能力を持っていないんだよね。
「器官」を喪失しているのかもしれない。
そう感じるほど、あの人たちは、「目下」の人間(特に子供)に対してだけサイコパスになる生物なんじゃないか。

傷つけたくないよ。できるもんなら。
できるもんなら、お母さんとお父さんを傷つけたくないよ。
でも、傷つけなくちゃいけないから、悲しいよ。



でも。
そもそも、お父さんとお母さんって、傷つくのかな?

わたしが「傷つけてしまった」と感じているのは、わたしのお母さんとお父さんじゃなくって、
「『わたしのなかの』お母さんとお父さん」なんじゃないか?

わたしが「傷つけた」と感じているのは、わたしの心内世界に住まわせている「お母さんとお父さん」なる幻想じゃないのか?

「現実の」お母さんとお父さんは、今ごろ菓子食って寝っ転がりながらつまんねぇテレビ見てワッハッハ!と笑っているんじゃないか?
「今ごろあの子どうしてるかしら⋯」なんてセンチメンタルに夜空を見上げてなんか、いないんじゃない?

そんなロマンチックな夢見てるの、子供だけじゃないの?

に決まってんだろ!!!!!!!!!!!!


願望フィルターというのは恐ろしいもので、何度破っても何度破っても自己修復を繰り返す、強靭な再生力を持った極厚オブラートで出来ています。

防弾ガラスよりも厚いです。
クソババア共の面の皮ぐらい厚いです。

そうだ、もしかすると⋯⋯


子供の「願望フィルター」と親どもの面の皮は、厚さが正比例するのかもしれない。


この仮説が証明されたら、いくらかくださいねっ!


なんて冗談はいいとして。


わたしのなかの、ズーンと重い、「お母さんとお父さんを傷つけてしまった⋯⋯。」という思いは、現実の奴らではなく、
わたしのなかの、「わたしの願望するお母さんとお父さん」を負わされた人格、つまり
「わたし達」のなかの1人(2人)を傷つけた。傷ついた、という実感なんじゃないか。

わたしのなかに、「わたしの願望するお母さんとお父さん人格」が、それぞれいるんだ。

だから、「現実のお母さんとお父さん」がさっぱり傷ついてなかろうと、「わたし」は、深く傷ついてしまう。

「わたしだったら」、傷つかずにはいられないだろう、と想像するから。


「わたしがお母さんだったら」、あの時、あんな酷いことをこの子に言わないだろう、とか、
「わたしがお父さんだったら」、わたしの言葉を真剣に受けとめて、これまでの自分の態度を深く反省するだろう、とかの、
延長なんだよね。


つまり、この「願望人格を負わされたわたし達」に語りかけてあげる必要があるんだ。


⋯⋯ということを思っていたら、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 - が答えをくれました。

わたしはどうしたらいいの?が具体的にわかります。

わたしはいま、実践しています。
実践した結果、だいぶ楽になりました。

『身体はトラウマを記録する』は超スーパーハイヤーエレクトロニック神名著だったので、いつか紹介する記事を書きたい。

というか買いましょう。
殴られたりネグレクトされたり性虐待されたり解離したりしたことのある人は、なにはなくともまずこの本を読んでほしい。
「身体に問題なんてないよ」、と思い込んでいる人こそ読みましょう。
わたしもそうだったから。

だいたい、「身体に問題なんてない」と思い込んでる時点で、身体と解離してるんだよなあ⋯⋯

自分の身体と「関係」を結んでいるひとは、

身体は日々、なにかしらの問題を訴えていて、
それを私たちが、親身に耳をすませて寄り添うことで、やっと心身の調和のとれた状態を手にすることができている、という事実を、身体の芯から、わかっているんだ。

それを解っていないからこその、
「私の身体に問題なんてない。問題があるのは私の精神だ。」という片手落ち自己認識が発生する。


図書館でもいい。
お金を出して、繰り返し読む価値もある本だ。


生きのびるために、『身体はトラウマを記録する』を読もう。


posted by ひろみ at 20:47| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年07月26日

「謝る」=「屈服させられる」ことだった。

事務的に、謝るメールを、どうしても送れないでいる。


わたしにとって、「謝る」こととは、「屈服させられる」ことだった。

あの地獄の家では。


対等な人間と人間のあいだで、お互いを尊重し合うために、
「自分の行為(あるいは行為の不遂行)が、結果的に、あなたに困った影響を与えたことを認めます」、
と儀礼的にメッセージを送る行為、


ではなかった。


お母さんが恐ろしい声で「謝りなさい!」とわたしを押さえつけたことを覚えている。
わたしは、怖かった。
怖くて怖くて、「なんでわたしが謝らなくちゃいけないの!」と思っていたのに、謝るしかなかった。
不機嫌な顔をしていたけど、心の底では、お母さんの剣幕が、声が、顔が、怖くて怖くてたまらなかった。
こういうときのお母さんの声は、「お前はゴミクズだ。私の言うことをきかないんならお前を殺すぞ。」という響きがあった。
言葉にしなくたって、それぐらい、わかる。
子供にだって、わかる。
わたしは、怖くて怖くてたまらなかった。
謝りたくなかった。でも、危害を加えられるかもしれないと思って、逆らうことはできなかった。
お母さんに、殺されてしまうんじゃないかと思った。
怖かった。

だから、今、謝るメールを、どうしても書けないでいる。
文面を考えようとすると、頭が止まる。動かなくなる。わたしの身体が、危機を感じている。
「謝ったら、どんなことになってしまうんだろう。」と、恐ろしく怯えている。
このメールを出せなかったら、わたしの人生が、また遠回りさせられるかもしれないのに。
胸の奥が込み上がって来て、耐えられない。
なんでこんなに、邪魔されなくちゃいけないんだ。
わたしは、なんにも悪くないのに。
苦しい思いばっかりさせられて、お母さんはのうのうと夫の稼ぎで中産階級の暮らしをしている。
わたしの人生を、返してよ。

わたしの人生を、返してよ。
わたし、怯えまくってるよ。
「普通」のひとができることが、わたしには全然できないでいるよ。悔しいよ。
怖いよ。悲しいよ。独り立ちしたいのに、できないよ。こんなに頑張っているのに。どうしてお母さんは邪魔をするの?
わたしが幸せになることを、応援してくれるひとに育てられたかった。口先でそう言うんじゃなくって。
ほんとうに、わたしの幸せを願ってくれるひとに育てられたかった。
posted by ひろみ at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

お母さんと別れて、寂しい。

お母さんと別れて、寂しい。


お母さんと決別して、はじめて、認められた。


「お母さん」と別れて、寂しい。


この「わたし達」は、たぶん3歳頃のわたしだと思う。


「お母さん」と別れて、寂しい。


わたしがきちんとお母さんと別れたから、やっと認められるようになったんだろう。


わたしは、「お母さん」と別れて、凄く寂しい。悲しい。


悲しいね、わたしよ。

posted by ひろみ at 03:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

赤ちゃんみたいに泣けるって、素敵なことだよ。




小さい頃。

とても幼い頃。小学校にも入っていない頃だったと思う。
わたしは、母親に、デパートまで連れられて行った。

デパートの外。
わたしは、母親に、露店のアイスキャンデーを買い与えられた。
そして、母親は、デパートの外にわたしを置いて、デパートのバーゲン会場へ行った。

わたしは、1人だった。
辺りには、誰もいなかった。大人も、子供も、誰もいなかった。
わたしは、敷石のところに座って、アイスキャンデーを食べた。
食べ終わっても、誰もいなかった。
わたし、1人だった。
誰もいなくて、不安だったけど、なにもできなかったし、どこにも行けなかった。
子供1人。

灰色のコンクリートに囲まれて、わたしは一人ぼっちだった。
わたしは、することがなくて(何も持っていなかった)、アイスキャンデーの棒を、裂いた。
濡れて柔らかくなった木を、噛んで、繊維にそって、細く裂きはじめた。
辺りに誰もいない。母親は、どこに行ったのかわからない。
だんだんと、しゅわぁーっと、周りが白い靄で包まれていった。
白っぽい靄の中で、わたし以外、何も見えなくなった。
コンクリートの灰色も、座っている敷石も、何も感じなくなった。
誰もいない空間で、わたしは、何かを感じないように、気づかないように、一心にアイスキャンデーの棒を裂き続けた。
裂いていくうちに、か細い繊維の束になって、筆みたいになることを目指した。

それから、どれくらい時間が経ったか分からない。
気絶して、目が覚めたような気がする。感覚では。
母親が、戻ってきた。でもなんだか現実味がなかった。
「ごめんねーw」と笑って、母親は歩き出した。わたしはぼうっと付いていった。
ぼうっとしている。辺りに現実味がない。
一言、文句を言った気がするが、諦めきった呼吸だった。
母親は、「ごめんねーw」と言った。

それから、記憶が途絶えている。


寂しいはずなのに、何も感じないような気がするのは、解離なのだろう。
⋯⋯と、「何も感じないような気が」と書きかけて、やっと、涙がじわっと沸いてきた。

何も感じないような気がする。
何も感じないような気がする。
何も感じないような気がするという、状態に、涙が出るのだろうか。

とにかく、何も感じないような気がする。
と書くと、涙がじんわりと溢れてくる。
ならば、それが答えなんだろう。

「何も感じないような気がする」と言いながら、やっと涙が流れてくるわたしに、わたしは、途方に暮れている。
何も感じないような気がするこれが、苦しいのだろうか。
責めないから、馬鹿にしたりしないから、その気持ちを聞かせてほしい。
もう、ここに、お母さんは、いないんだよ。
もう、わたしの気持ちを馬鹿にする人は、いないよ。
寂しいって感じることは、いけないことじゃ、ないよ。
いまなら。
いくらでも寂しいって、感じていいんだよ。
寂しいよ。寂しいね。寂しいね。

寂しいって泣くことは、「赤ちゃんみたいでダメなこと」じゃあ、ないよ。
「赤ちゃんみたいだよぉ!」と子供を馬鹿にする母親の声をよく聞くけど、
赤ちゃんみたいなことは、素敵なことだよ。
自分の気持ちを、力いっぱい泣いて表現できる、「赤ちゃんみたいなこと」って、ほんとうに素晴らしいことだよ。
赤ちゃんみたいに泣けるって、とっても素敵なことだよ。
赤ちゃんみたいに、泣こうよ。

わたしよ

posted by ひろみ at 02:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

嫌いなもの



うるさすぎないウェーイ系より、「快活シニカル・僕知的リア充です系」が私は一番嫌いだなあ。
ハキハキ声が通って、小綺麗な女の子1〜2名と、学生ラウンジに少人数で座ってるようなの。

世の中でウケてるものを、何でも「明るく冷笑」する、
僕のような非マッチョ知的センシティブ男子こそがこの世で最もかっこいいんだよね!まぁその価値を理解できるのも少数の、選ばれた、君のような知性もあるけど可愛さを捨てない(それこそが最も知性的な在り方なんだけどそれを分かってる子は少ないよね)女性だけだからね、世間が愚衆なのはこれはもう、しょうがないよ(笑)

な、
一見非マッチョな、高慢の鼻がいきり勃って堂々と上空へ屹立している快活シニカル・僕知的リア充です男子を見ると、

うらぁっ!と掌底突きで顎を天空まで突き上げ飛ばしたくなりますね。


なんででしょうね。同族嫌悪なんですかね。


でもうるさすぎるウェーイ系の方が害悪度においてさらに嫌いですね。

うるさすぎないウェイ系は許容できる。
かれらは基本自分たちの世界に意識が向いてるから、こちらに当て付けるような臭っさいナルシシズムはあまり感じないな。

とことん自分たちに酔った自己目的的ナルシストと、
自らのナルシシズムを当て付ける、「見下し対象」を要する巻き込み型ナルシストでは、後者の方がガン嫌いです。

わたしの母親と父親と、そっくりだぜ。あいつらは。




***



あ、これ『バクマン。』の主人公コンビだな。




***



やっぱうるさすぎるウェーイ系うぜえ!!!!!


ゆらぐ。



posted by ひろみ at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

勇気とは、





「どんな地球上の最凶権力者であろうと、わたし以外は全てゴミ。」


という覚悟がなければ、


「どんなに力無い、ちっぽけな、哀れないのちでも、ほかの何にもおとらずに、大切にしたい。」


という慈悲のこころは、

護られ得ない。



保たれ得ない。



なにかとてもささいな、小さなものを、大切にしたかったら、

もう自分をぺしゃんこに圧し潰してしまうほどの巨大な、恐ろしい敵であろうと。
ぶっ飛ばす。


というカラ元気の、蛮勇を奮う必要がある。


それは虚栄心ではない。
小さなものを大切にしたかったら、自分じしんが自分の生命を護る。覚悟を持たなければいけないんだ。

その覚悟もないままに小さなものを護ろうとしても、
見せかけの、媚び売りの、ペテン師にしかならない。


鬼神よりもおそろしい権力者さえ。
ぶっ飛ばす。


実際にどうなるかどうかではなく、こころのなかの世界で、そういう想像力を奮えるかどうかだ。
幻想力を。



勇気とは、自分の想像力を愛しぬく無邪気な恋心だ。



想像力だ。



想像力を、馬鹿にしては、ならない。



想像力と、友だちになろう。



わたしは、わたしじしんの想像力を愛そう。



そして、
わたしじしんの幻想力を、愛そう。



幻想を、にくんでは、ならない。



幻想は、生命力なんだ。



わたしを追い詰める幻想を、わたしを温める幻想に変えよう。




posted by ひろみ at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月20日

おまえは、どこにいる?




誰もかれも、好きでこの世界に生まれたわけでは無いのに、

まるで「わたしは、生まれたくって、この世に生まれてきました!」とキラキラした顔を見せ
ようとしなくっていいのよ。


そういう顔をすることを、親が要求したからって。


国家が要求したからって。



したくもない表情を造ってやる義務は、全っっっっったく無い。
断言する。


したくもない表情を捏っていきるのは、地獄の所業だ。


ズーンと落ち込んだ、「わたしはいま地獄にいます。」という表情を、そのまま出せばいいのだ。


だって、うしろの「わたし達」が、そういう気持ちを現わしたがっているんだ。


それを邪魔するのは虐待である。






まあ、虐待も、時にはしたっていいんだけど。


この世にしてはいけないことなど、なにもない。


だから、生きられるんだろう?



親どもの、「ここ」だけは見習ったほうがいい。
「ここ」だけは、貪欲に、盗んで生きようじゃないか。



もっと無責任に、周りに迷惑をかけて生きよう。


やつらがそうしてきたように。

そうしてきたからこそ、奴等は生き残れたんだ。

だがそれを、わたし達は、「親のため」ではなく。


自身自身のために、使おう!


そこが彼らとの違いだ。
かれらは、自分の親のために、世間のために、そのスキルを使ってきた。
その結果があれである。


だが、わたし達は。


わたし達は、じぶんじしんの身体と、こころを楽にするために、ひとに迷惑をかけようじゃないか!



だいたい迷惑をかけたところで、何も困りはしないのだ。こちらは。

責任なんか取らなくったって、なんにも問題無いんだ。こっちは。


おまえは、どこに生きている?


あっちか?それともそっちか?





こっちだろうが!





posted by ひろみ at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月05日

千葉雅也さんの「ことば」に、癒される。

千葉雅也さんの「ことば」に、癒される。




千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
5月31日
自分がこの世に生まれたこと、他人と違う存在であることの偶然性に耐えられない、そのことによる不安。すべての文化的産物はその隠蔽であると言えるが、いま問題になっているのは、それが強く他者性排除的になっていること。それは、「産まれてこなければ」という無意識にかなりイコールでは、と思う。


なるほどなあ。
私が「無意味」「無理由」「無原因」にたどり着いて、「虐待の理由さがし」地獄から解脱できたのは、千葉雅也さんの著書と、発言を読んだからです。

わたしは、ずっと、生まれてこなければよかったと思っていた。
「生まれてこなければよかった」も、「死にたい」も、半分は、お母さんへの「媚び」であった。
わたしがいなくなればお母さん、喜ぶんでしょ?
わたしが消えれば、お母さん、めんどくさいこと、全部、なくなるよ。
よろこんでよ。わたしに、「よくやったね」って、褒めてよ。


「ありがとう!よく、お母さんの望みどおりに消えてくれたわね、いい子だわ!」って、


褒めてほしかったんだ。




半分はね。




かなしいなあ。





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
6月1日
がんばってやってきたオトコが語る自己責任論の必死感、哀しさ。そう、哀しいトーンがある。哀愁。(そこに他人を巻き込むから害悪なんだ!という批判はわかるし、すべきだろうが、しかしその根底にある哀しさへの「愛」がなければ、社会全体を変容させることはできないだろう。)




がんばってやってきたオトコが語る自己責任論に虐待されてきたので無理です。

わたしは愛しません。

「がんばってやってきたオトコが語る自己責任論」には、反吐が出るほど嫌倦厭しています。


社会を変容させることの大切さは重重承知していますから。


どうぞ、愛せるひとが愛してください。
わたしには無理です。

かといって、「愛せる」ひとたちがあのクソジジイを愛そうとすることを、わたしは止めません。
どうぞ愛してやってください。

わたしには無理です。
わたしに無理なことは、できるひとがやってください。

なんて優しいんだ、わたしは⋯⋯。



ひとには向き不向きがあります。


わたしには愛せません。愛しません。


哀することはできます。

あいっ かなしーみーのあいっ!!
あい・せんしたちッ!!!

高校時代の友人がよくピアノで弾いてたなあ⋯


わたしには哀することが限界なので、愛せるひとはどうぞ愛しますよう。
陰ながら応援するしだいです。


わたしにできないことを、他のひとにお任せする。
これこそは、人が「他者もいる」世界に生きる美点だ。





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
男子校で、生徒同士の同性性関係が発覚すると、停学とか退学になるという話、あちこちから聞くんだけど、いつもそういうルールを撤廃できないものかと思う。いわゆる不純交遊の問題と、同性愛差別が絡み合っているケース。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
二人でトイレの個室に入ったことがバレたら退学とかね。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
ああいう(しばしば隠されている)ルールって、現代の人権感覚からしたらアウトなんじゃないの。


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男子校に同性性関係の現実があるかと言えばあるのであり、実際BLみたいな状況はたんに腐女子の妄想ではなく、ある程度現実にあることなのだ、と思っていい。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
なんか、人狼っていうゲームに抵抗感があるのは、ヘテロ男の社会の中で、実はあいつホモなんだって!というのをすぐに連想するからだろうな。


その感覚はすごくわかるなあ。
最初、ルールを聞いたとき、なんか得体の知れぬ嫌な感じが走ったんだよな。
恐怖に近い感じ。
「へ⋯⋯ へぇー⋯ お、面白いんだろうなぁ〜⋯⋯?」

背すじに走る、なにかに「気づきたくない」怖さ。

千葉さんの発言ではっと腑に落ちたんだよな。
わたしも人間にみえる透明人間だった。

人間にみえる透明人間。



人間にみえる透明人間。



そういう感じ。





***




自虐でもなく、自慢でもなく、自分のインテリ性を、ほがらかに認める。


インテリは、インテリの苦しみから解脱しよう。
インテリであることは、恥ずかしいことじゃあないよ。


かといって逆差別ナルシシズムに陥ることもなく。
インテリさは、ただ、たくさんあるすてきな個性のなかの、ひとつだ。


この素敵さを、揶揄うひとも、やっかむひともいる。私のクソ親父とかな。
それは、他者の美貌を揶揄うように、他者の富貴をやっかむように、
ただ、加害者の、虐めたい欲望の前には、どんなものでも利用される。


被害者のがわには、虐められる「意味」も、「理由」も、「原因」も存在しないんだ。
ほかのすべての個性と、同じように。


だから、自分のインテリさという素敵さを、憎まなくて、いいんだよ。
蔑むのは、やめよう。



インテリは、すてきな個性だよ!





ということを、千葉雅也さんの勉強の哲学 来たるべきバカのために -
勉強の哲学 来たるべきバカのために - を読んで、思いました。
posted by ひろみ at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年05月27日

「悪気はない」=「研ぎ澄まされたしらばっくれ」




「悪気はない。」

=「悪いとは思っていない。」

=「加害者意識がない。」

=「自分の行為の結果が相手を苦しめている事実を、認めない。」


「悪気がない」というのは、


「研ぎ澄まされたしらばっくれ」でしょう。



「悪気がない」ことがまるで良いことでもあるかのようにのたまう加害者のうわごとに付き合っちゃあ、ならんよ。


同じ加害行為を、繰り返さないように努めるひとは、
「悪気がなかった」自分の不覚を、悔しく思うだろう。

「悪気がなかった」ことは、


責めることでも、誇ることでもないことを。


わかってはじめて、同じ加害行為を繰り返さないように、気を付けられるようになる。



けっして、
ドヤ顔で、免罪符を得たかのように、「悪気はなかった」などと吐かしはしない。



銘記せよ。


「悪気はなかった」と叫ぶやつは、
同じ加害行為を、何度でも繰り返す!









posted by ひろみ at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

殴られたのは、「無意味」だ。




やっと分かった。


わたしが殴られたのは、無意味なんだ。

わたしが侮辱されたのは、無意味なんだ。

わたしが殺されたのは、無意味なんだ。


無意味なんだ。


暴力に、理由は無いんだ。




そりゃあ、加害者側には意味があるだろう。
「理由」をいくらでも捏ねくり回して創造できるだろう。
加害者の側は、自らの暴力行為を、いくらでも、「文脈」に位置づけることができる。



被害者のわたしには、無意味なんだ。
無理由なんだ。

被害者のわたしには。

すべてが、無意味なんだ。



そのことを受け容れられなくて、こんなにも苦しんできた。
受け容れるのに、こんなに時間がかかった。

でも、いいんだ。
それだけ、苦しいことだったんだから。

わたしが、ありもしない「理由」や「原因」や「意味」を求めて、
暗中を狂おしく探り徘徊しまわっていたのは、
傷を負った者の、さいごの生存本能だ。


もう、いい。
もう探さなくていいんだよ。

もう、未解決事件の犯人を延々と探り続ける刑事のように、苦しまなくていい。
わたしは、もうそんなことはしなくていいんだ。

あの地獄の家族から、わたしは逃れられたのだから。


もう、あいつらがわたしを殴ることはできない。
殺すことはできない。

侮辱はされる。時どき。



だが、もう、あいつらにわたしは殺されない。


加害者は、もうわたしの近くにはいない。


だから、「理由」は、「意味」は、探さなくていい。




それらは、加害者の中に在る。



被害者の中には絶無である。




この一回的な、一瞬の傷つけ、傷つきのなかに、意味など無い。


そしてこれは、過去のものだ。


今は、この痛みを、ただ感じていればいい。
意味づけも、理由づけも、不要だ。

わたしが理由を探る必要など、「もう」、ないんだ!


だいたいなんで被害者がそんなもん突き止めなきゃいけないんだ!

自己分析は、加害者がやれ!
司法が、行政がやれ!


被害者はそんなことしてる暇はない。
自分の人生で忙しいんだよ!!!!!



とこう振り払うことができるのは、わたしがこれまで加害者たちの生育歴を丹念に、
老獪刑事の執念で、地獄の底まで「既に」浚ってきたからだ。


とことんやって、やって、やり尽くしてきた。


やり尽くしたら、もう、あとは加害者の仕事だ。



被害者のわたしには、暴力を受ける「理由」も、「意味」も、「原因」も存在しないのだから。


あとは加害者にお任せしよう。



加害者の人生は、加害者の人生なのだから。






posted by ひろみ at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする