2017年08月08日

神を、飼おう。

他人の欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それ、わたしの欲望じゃない!


お母さんの欲望が、わたしの中に入り込んでいる。


それを、わたしは自分の欲望だと勘違いしている。



ラカンは「すべての欲望は、他者の欲望を模倣するところから始まる」と言っているらしい(未読)けど、

じゃあ、「すべての欲望のはじまり、原欲望みたいなものは、どこから来たの?」という疑問がある。


「わたしの欲望」だって、あるんじゃないの?

お腹が空いて、食べ物を食べたいとか、わたしの欲望じゃないの?

それとも、誰かに「食べさせられて」、初めてわたしは「ものを食べたい」という欲望を刷り込まれた、ということなんだろうか。

赤ちゃんのわたしが、「食べたい!」と望む前に、
誰か(おそらくは母親であろう)が、わたしに「乳を飲ませたい。」と欲望して、わたしに飲ませた。
そして、わたしは、「食べる」という快楽をまなんだ。

食べる、食べさせられる。

「この子に食べさせたい。」という他者の欲望を注がれて、
その他者の欲望を取り込むと同時に、わたしの中に「食べたい(食べさせられたい)。」という欲望が生じた。

この瞬間、たぶん、わたしのなかで「食べる」と「食べさせられる」の違いはなく。
感覚のうえでも、それが他者の欲望であるのか自分の欲望であるのか分からない、曖昧である、
そもそもその境界線が存在しない。という世界にいたんじゃないだろうか。

そして、「食べさせられる/食べる」の欲望をまなんだわたしは、お腹が空いたり口寂しくなったら、大声で泣いて、誰かを呼ぶようになった。

しかし、それを見た、聞いた他人(主に母親)は、「この子が食べたがっている。」と解釈して、
「乳を飲ませたい。」と欲望し、乳を飲ませる。

その行為自体は、「食べさせられる/食べる」同位体とでも言うべきものだろう。
つまり、どちらにも解釈できる。
どちらかが誤りであって、どちらかが正しい、などということはない。
「食べさせられる」であり「食べる」であるところの行為が、この大人と赤ちゃんとの接続体に発生している。

大人にとっては「赤ちゃんによって、与えさせられる」であり、赤ちゃんにとっては「大人によって、食べさせられる」であるところの行為が。

どちらも、相手に「やらされている」という感覚を持っている。



やはりすべての生き物は生きさせられているのであり、
しかし、自分の力ではどうにもできないこれを、「自分が望んでやっている」とは、到底感じられない。

自分の力ではどうにもできないこれを、させている「誰か」がいる。

誰か、「他者」だ。

こうして、「他者」は生まれた。いや、「生まれさせられた」。


「他者」は、「生まれさせられた」。




とにかく人は、自分の力ではどうにもできないことを、自分の所為だとは到底感じられず、かといってそれを為している「主体」が、どこにも存在しない。設定できない、というのが、耐えられないんだろう。

だから、架空の「他者」を生み出す。

それは、「神」に近い。


この「神」を信じられないとき、信じたくないとき、人は、手近な人間なり石なり動物なりの「せい」にするんだろう。
だれか、ほかのやつの「所為」に。


なにか、自分にはできない凄いことができる他者、というのは「神」なのである。

それは、ほんらい、親でもなく子供でもなく、「神」としかいいようのない存在でしょう。
架空であっても。


しかし、神には「実体」はないから、それに人は耐えられない。

どうしても、「実体」のある神を求めたがってしまう。わたしだってそうだ。

だから、「実体」を持っている「自分にはできない凄いことができる他者」をみた途端、
「このひとは神だ!!!」とLOVEモードに入ってしまう。


だがちょっと待ってほしい。
そのひとは確かに、「自分にはできない凄いことができる他者」だ。


しかし、全知全能の万物主だとは一言もいってないんだよなぁ⋯⋯。


でも、でも、だって。


人は、「実体」をもった、「全知全能の万物主」が欲しくてたまらないのです。


でも残念ながら、そいつに、実体はありません!!!!!!!!!!!
残念ッ!!!!!


ないもんはないんだから仕方ないだろうが!!!!!!!でも欲しいよね。


でも、何度言っても足りないが、「全知全能の万物主」に、「実体」はないんだよ!!!!!!!!


科学でも数学でもいかなる実証学でも、観測できはしない!!!



だってそれは、わたしのこころのなかにあるんだから。


それは、自分の力ではどうにもできないものと初めて出会ったとき、わたしが最初に生み出した、
「わたし達」のうちの一人
なんだ。


きっとそれは、赤ちゃんの時に。


わたしは、自分の力ではどうにもできないものと出会った瞬間、恐怖しました。そして、次の瞬間、神さまを生み出しました。


わたし達のなかの、「なんでもできるだれか」というひとつの人格です。


「なんでもできるだれか」をこころのなかに生み出したわたしは、安らぎました。

困ったことがあったら、この「なんでもできるだれか」に、頼ればいい!

そう思うと、ほっと安心したのです。


だが、困ったことに。

この「なんでもできるだれか」は、姿を現してくれないのです。
音も立ててくれないし、触ることも、しゃぶることもできないのです。
怖いです。


ふだん、人は、解離しています。
この世に、解離していない人などいません。

日常生活を送るには、何を食べようか悩んだりどこに行こうか悩んだり何時に出ようか悩んだりする、「前のわたし」に意識を移して生活しなければならないからです。

「前のわたし」に意識を移していると、「後ろのわたし」に意識がいかなくなります。

しかし、
神さま、「なんでもできるだれか」は、「後ろのわたし」のなかにいます。
ゆえに、「前のわたし」がフル回転して活動しているとき、「後ろのわたし」、「なんでもできるだれか」は、意識の中でお留守になります。

わたしは、怖くなりました。
「なんでもできるだれか」がいなかったら、わたしがお腹が空いた時、寒くて凍えそうな時、天敵とであった時、大怪我をした時、どうすればいいのでしょうか?


死⋯⋯?


耐えられるわけがありませんでした。
堪え難い死の恐怖に襲われたわたしは、「なんでもできるだれか」を、「実体」のある存在に投影しました。

その、最初のひとが、母親でした。
べつに、そのひとでなくてよかったのです。
自分の一番近くにいて、自分にご飯をくれたり温めてくれたり護ってくれたりする可能性のある存在であれば。
ロボットでも。植物でも。養い親でも。父親でも。
何でもよかったのです。

ただ、
そのときは、たまたま、母親しか、相対的に長時間近くにいてくれる存在はありませんでした。

だから、「なんでもできるだれか」を、母親に投影するしかなかったのです。
偶然に。
無意味に。

無理由に。

無原因に。

無根拠に。

たまたま。この時代の、この国では。母親しか、相対的に長時間、そばにいて世話をしてくれる可能性のある存在が、それしか、いなかったのです。

だから、わたしは、「なんでもできるだれか」を、母親に投影しました。
「神さま」を、母親に投影しました。

そうするしか、なかったのです。

ですが、「現実」との乖離は、わたしを苦しめました。
苦しんで苦しんで苦しみぬきながら、なんとか、今日に至るまで、生き残ってくることができました。

それは、ひとえに、偶然と、わたしの頑張りのおかげでした。
偶然だけではなく。わたしの頑張りだけではなく。

偶然と、わたしの頑張りの、どちらもがあって、やっと、生き残ることができたのです。





自分のケアを、ある程度、自分でできるようになったわたしは、

「わたしだけの神さま」を、わたしのなかに飼おうと思います。


目に見える実体に、「なんでもできるだれか」を投影するのを、辞めて。


わたしは、


「わたしの気持ちと身体に、とことん寄り添ってくれる人格」を、飼って生きていきたいと、望みます。






posted by ひろみ at 04:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

いいぞどんどん言ってやれ >すべての人へ。




わたしは言いたいことを言いまくってやりたくて(半)匿名でことばを書いているけど、実名を明らかにしてものを言うのは、どんなにか勇気のいることだろうと思う。


‪私は、パレーシアするひとを‬‪尊敬する。‬

‪顕名で生き恥を晒しているネットウヨク的な人々もいるが、それはそれで懸命に生きているのだろうとは思う。尊敬はできないが。‬

‪とにかく、言いたいことを言うのは気持ちがいいものだ。‬

‪言いたいことを言えばいいのだ。みんな。‬
‪言いたいことを言って逮捕される国でない限り、匿名でくらい、言いたいことを言えばいい。みんな。‬
‪言いたいことを言うのは最高の健康法だ。‬

‪糞親たちを見よ。‬
‪サイコパスお母さんたちの、究極の言いたい放題っぷりを、そのイキイキっぷりを、もっと見習っていい。‬
‪ほんと、言いたいこと言いまくってるからあいつら、健康なのよね⋯⋯死ねばいいのに。‬


‪話がちょっと逸れた。‬


‪わたし達が奪われたのは、「ことば」だ。‬
‪「ことば」を、取り戻せ。‬


‪わたしは、千葉雅也さんのパレーシアに、こころからの、「よっしゃあ!」を送る。‬





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
‪これを言うかは長く迷っていたんだけど、僕の文脈を知らない読者も増えたし、「我々」の時局も時局だから、前提を示した方がいいだろうと思って言うと、僕はゲイとして生きてきました。正確にはバイセクシャルな面もあるので、ほぼゲイとして。これまで、その立場から社会的発言をしてきました。‬午後10:08 · 2017年7月27日


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
こういう言い方もアレだけど、ゲイの知識人としての役割を果たす必要もあるな、と思ったわけよ。フーコーだってそれをやった。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
歴史との格闘だな。カッコつけてばかりもいられない。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachib‬a
‪まあ、このアカウントは親が見てるから、あちゃーと思うだろうなあ。いやはや。‬

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachib‬a
しかしそれも本当「我々」にとっては問題でね。子の親に対する葛藤というのは古い問題系で、むしろ親から子へ、という東さんの理論方針はある種の非精神分析として大事なんだけど、こっちとしてはやっぱ親の問題はデカいわけですよ。


ほんっとそーなのよね!!!!!!!!!!!!!
親によるヘイトクライムの被害者となった子供たちで、集団訴訟とかできませんかね!?
ファーストレイプもセカンドレイプもサード(ry)喰らってるんですけど、親を法で規制しろよ!!!!!!!
だから東さんの提唱する「新しい家族」なる概念も怖気走ってしょうがないんですよね!!!!!!!!

「私たち」は、「家族」というだけで、反吐が出るんですよ!!!!!

どんなに素晴らしい概念でも、「家族」と名付けられた時点で、蕁麻疹が出て、虚脱状態、呼吸困難に、「生理的に無理」になる人たちの気持ちも、思い知らせてやりたいぐらいだなぁ!!!

そのくらいの覚悟をもって、「家族」ということばを選んでるのか、疑問ですね。
べつに東さんに恨みがあるわけじゃないが、そんなふうに簡単に、気軽に(と敢えて決めつけさせてもらう。)「家族」ということばを使える時点で、
「ああ、わたし達とは全く彼岸の世界で生きてらっしゃるんだなあ⋯⋯」と疎外を覚えるんだよ。
この事実を、思い知ってほしいね!!!


「家族から擬似家族へ」とかって、「家族」という名がついてる時点で、地獄への再回帰にしか感じられないんだよ。

こういう、「名前」の問題って、大事だぞ。
「家族」じゃない、新概念じゃだめなん?



だいたいセクマイ当事者は往々にして親に対して弱腰なんだよ!!!!!!!
そこは私、憤ってるぞ!!!!!

「あなた何も悪くないやん⋯」ってことで「親に申し訳なく」思っているセクマイ達のことばを聞いて、どんなに(他人事ながら)忸怩たる思いを噛みしめているか!!!

「ぶち◯すぞ(共謀罪対策)ヘイトクライマー!!!」と叫んで糞親に中指を立てる気概が足りない!!!!!

気概をもて。
親よりも、はるかにあなたの尊厳のほうが大事なんだよ!!!!!!!!


まきむぅはアダルトチルドレンの自認をもったほうがいいと思う(お節介無礼発言)。



千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
僕はストレートのアライの立場には基本的に懐疑的です。というのは、彼ら自身の承認欲求が大きくあるのでは、と思うからです。今日、LGBTを支援することはほとんど「絶対的な善」であり、そうすれば絶対的に承認される。絶対に外れない「承認馬券」を買うようなものだからです。

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
今のはいくらなんでも悪し様に言っているけど、つねに承認の偶発性で揺らいでいる当事者の立場からすれば、こっちにすり寄ってくるアライは盤石な立場で結構なことですねえ、という思いがあるというのが正直なところ。まあ、必要な存在ではあるけど。って言うと冷たいが、それがこっちの感覚だな。


‪わたしは、‬「アライ(同盟者・味方)」という言葉に、ペテン師の臭気を感じる。
なんと他人事感丸出しの、お為ごかしの、「好意ある善人でございます。」上から目線オーラ溢れることばだろうか。
「私は君の味方だよ!」と自称しながらにじり寄ってくる奴の、鼻持ちならない詐欺師臭を、自身では感じられないのだろうか?


あんたが私の味方かどうかは、私自身が判断する。
あなたが決めることじゃない。勘違いするな!


という思いを、「アライ」という言葉に感じます。


名乗るんだったら、「脱ヘテロセクシスト」「クィアストレート」とか、どうでしょうか?



そもそもなあ。


自分はホモだと絶対に思われたくないけど、『マイノリティに優しい善良な市民』の服は着たい!自分は絶対にホモだと思われたくないけど。」


って願望が見え見えなんだよ!!!!!!!!


「私はあなた達を差別しませんよ!私自身は絶対にホモだと思われたくないので『ストレートだけどホモに味方する人』という造語をわざわざ作って世間に流布はしますが、『ホモのあなたたち』を差別するような酷い人達とは、私は違うんですからね><!!!」

って言われてセクマイが喜ぶとでも思ってるのかな?
無礼(なめ)てんのか?


「味方」を名乗りたいなら、自分もホモだと思われる覚悟をもてよ。


ホモだと思われる覚悟もなしに、
「同類」だと、「お仲間」だと、十把一からげに差別される覚悟もなしに、
「脱差別」の旗なんぞ掲げるな。


「私たち」が戦っているのは、その「十把一からげ」なんだよ!


このヘテロセクシズムの世界を攪乱し、動揺し、内破したいなら、
自分に負わされた「十把一からげ」の衣を、「これも面白いじゃん?」と笑って肩脱ぎに掛けていく、「身振り」が必要だ。

差別者たちは、その朗らかな「引き受け」に、戦慄し不安に襲われるだろう。
足元が、動揺させられる。

軽やかにスティグマを着こなして、かぶいて魅せる出で立ちこそが、「しるし」を無意味に、たんなる模様へと変えていく。

スティグマを空洞化するその手伝いをしてくれるなら、「おっ ありがとさん。」と思えるんだがねぇ?


決して「味方」には、なれんでしょうな。
「アライ」を名乗っているかぎり。





言いたいことを、言ってやる。




posted by ひろみ at 03:25| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

永田カビさんと同じ症状が出ている。

永田 no moreスマホ破損 @muninini 6月18日
お母さんのいい子に戻りたいと思う気持ちよ


ちょうど、永田カビさんと近い時期(私は2016年4月に出ました)に毒ホームを出て一人暮らしを始めたため、今まさに同じ症状が出ている。シンクロしてるよ!

ちなみに初めてレズ風俗行ったのも3〜4年前で、おそらく(偶然)近い時期に初風俗体験したんだなあ。
だが大きな差はある。







まあいい。いつかは⋯⋯いつかは⋯⋯!そして生涯を迎えそう


で、症状(と呼ばせてもらう)の話なんですが、

どんなにきっぱりと、行動のうえで親達と決別していても、
こころのなかには、共依存フルな「わたし達」がいるわけじゃないですか。
その共依存フルな「わたし達」は、死んではいないわけです。
殺したいと望むんではなくて、その「わたし達」に、
「だいじょうぶ。もう、共依存しなくていいんだよ。
もう、お父さんとお母さんに嫌われても、殺されたりしないよ。
どんなにお母さんとお父さんに嫌われたって、わたしは生き残れるんだよ!」

と辛抱づよく説得して、その「わたし達」の信頼を勝ち取れるように、
行動のうえで、はっきりと実践していかなくちゃならない。

行動とは、まず、

わたしをケアすること。

わたしの気持ちを聞く。
お腹が空いたら食べて、トイレへ行きたくなったら行って、夜は歯を磨いて、フロスをかける。
病気をしたら病院へ行って、お風呂に入って、アトピーの肌をケアする。

そして、お母さんの誘惑を拒絶する。

これが大事だ。
ただ、なかなか難しい。

優しい顔をしたくなる。
なにも、傷つけたくって、親達を傷つけているんじゃあない。
少しは、傷ついてほしいという思いもあるけど、
大部分は、やっぱり、お母さんとお父さんを、傷つけたくない。できるならば。


できるならば、と思ってしまう。できっこないのに。

できっこないんだよ。
そうできるんなら、どんなにそうしたいか。

でも、傷つけないと、わたしを護れない。
そういう人たちなんだ。

わたしを一人の人間として、人権を持った主体として扱ってくれる人となら、わたしも、小さな行き違いで互いに傷つけ合ったとしても、

相手の、お互いのほんとうに大事な部分は、踏み躙らないように、不必要に傷つけないように(傷つける必要がある場合もある。どんな相手とも。)、憚りながら、でも信頼しあいながら、やりとりを続けていくことができる、と感じている。

でも、それお母さんとお父さんは、できないんだよね。わたしに対して。
不能なんだよね。能力を持っていないんだよね。
「器官」を喪失しているのかもしれない。
そう感じるほど、あの人たちは、「目下」の人間(特に子供)に対してだけサイコパスになる生物なんじゃないか。

傷つけたくないよ。できるもんなら。
できるもんなら、お母さんとお父さんを傷つけたくないよ。
でも、傷つけなくちゃいけないから、悲しいよ。



でも。
そもそも、お父さんとお母さんって、傷つくのかな?

わたしが「傷つけてしまった」と感じているのは、わたしのお母さんとお父さんじゃなくって、
「『わたしのなかの』お母さんとお父さん」なんじゃないか?

わたしが「傷つけた」と感じているのは、わたしの心内世界に住まわせている「お母さんとお父さん」なる幻想じゃないのか?

「現実の」お母さんとお父さんは、今ごろ菓子食って寝っ転がりながらつまんねぇテレビ見てワッハッハ!と笑っているんじゃないか?
「今ごろあの子どうしてるかしら⋯」なんてセンチメンタルに夜空を見上げてなんか、いないんじゃない?

そんなロマンチックな夢見てるの、子供だけじゃないの?

に決まってんだろ!!!!!!!!!!!!


願望フィルターというのは恐ろしいもので、何度破っても何度破っても自己修復を繰り返す、強靭な再生力を持った極厚オブラートで出来ています。

防弾ガラスよりも厚いです。
クソババア共の面の皮ぐらい厚いです。

そうだ、もしかすると⋯⋯


子供の「願望フィルター」と親どもの面の皮は、厚さが正比例するのかもしれない。


この仮説が証明されたら、いくらかくださいねっ!


なんて冗談はいいとして。


わたしのなかの、ズーンと重い、「お母さんとお父さんを傷つけてしまった⋯⋯。」という思いは、現実の奴らではなく、
わたしのなかの、「わたしの願望するお母さんとお父さん」を負わされた人格、つまり
「わたし達」のなかの1人(2人)を傷つけた。傷ついた、という実感なんじゃないか。

わたしのなかに、「わたしの願望するお母さんとお父さん人格」が、それぞれいるんだ。

だから、「現実のお母さんとお父さん」がさっぱり傷ついてなかろうと、「わたし」は、深く傷ついてしまう。

「わたしだったら」、傷つかずにはいられないだろう、と想像するから。


「わたしがお母さんだったら」、あの時、あんな酷いことをこの子に言わないだろう、とか、
「わたしがお父さんだったら」、わたしの言葉を真剣に受けとめて、これまでの自分の態度を深く反省するだろう、とかの、
延長なんだよね。


つまり、この「願望人格を負わされたわたし達」に語りかけてあげる必要があるんだ。


⋯⋯ということを思っていたら、身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 - が答えをくれました。

わたしはどうしたらいいの?が具体的にわかります。

わたしはいま、実践しています。
実践した結果、だいぶ楽になりました。

『身体はトラウマを記録する』は超スーパーハイヤーエレクトロニック神名著だったので、いつか紹介する記事を書きたい。

というか買いましょう。
殴られたりネグレクトされたり性虐待されたり解離したりしたことのある人は、なにはなくともまずこの本を読んでほしい。
「身体に問題なんてないよ」、と思い込んでいる人こそ読みましょう。
わたしもそうだったから。

だいたい、「身体に問題なんてない」と思い込んでる時点で、身体と解離してるんだよなあ⋯⋯

自分の身体と「関係」を結んでいるひとは、

身体は日々、なにかしらの問題を訴えていて、
それを私たちが、親身に耳をすませて寄り添うことで、やっと心身の調和のとれた状態を手にすることができている、という事実を、身体の芯から、わかっているんだ。

それを解っていないからこその、
「私の身体に問題なんてない。問題があるのは私の精神だ。」という片手落ち自己認識が発生する。


図書館でもいい。
お金を出して、繰り返し読む価値もある本だ。


生きのびるために、『身体はトラウマを記録する』を読もう。


posted by ひろみ at 20:47| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年07月26日

「謝る」=「屈服させられる」ことだった。

事務的に、謝るメールを、どうしても送れないでいる。


わたしにとって、「謝る」こととは、「屈服させられる」ことだった。

あの地獄の家では。


対等な人間と人間のあいだで、お互いを尊重し合うために、
「自分の行為(あるいは行為の不遂行)が、結果的に、あなたに困った影響を与えたことを認めます」、
と儀礼的にメッセージを送る行為、


ではなかった。


お母さんが恐ろしい声で「謝りなさい!」とわたしを押さえつけたことを覚えている。
わたしは、怖かった。
怖くて怖くて、「なんでわたしが謝らなくちゃいけないの!」と思っていたのに、謝るしかなかった。
不機嫌な顔をしていたけど、心の底では、お母さんの剣幕が、声が、顔が、怖くて怖くてたまらなかった。
こういうときのお母さんの声は、「お前はゴミクズだ。私の言うことをきかないんならお前を殺すぞ。」という響きがあった。
言葉にしなくたって、それぐらい、わかる。
子供にだって、わかる。
わたしは、怖くて怖くてたまらなかった。
謝りたくなかった。でも、危害を加えられるかもしれないと思って、逆らうことはできなかった。
お母さんに、殺されてしまうんじゃないかと思った。
怖かった。

だから、今、謝るメールを、どうしても書けないでいる。
文面を考えようとすると、頭が止まる。動かなくなる。わたしの身体が、危機を感じている。
「謝ったら、どんなことになってしまうんだろう。」と、恐ろしく怯えている。
このメールを出せなかったら、わたしの人生が、また遠回りさせられるかもしれないのに。
胸の奥が込み上がって来て、耐えられない。
なんでこんなに、邪魔されなくちゃいけないんだ。
わたしは、なんにも悪くないのに。
苦しい思いばっかりさせられて、お母さんはのうのうと夫の稼ぎで中産階級の暮らしをしている。
わたしの人生を、返してよ。

わたしの人生を、返してよ。
わたし、怯えまくってるよ。
「普通」のひとができることが、わたしには全然できないでいるよ。悔しいよ。
怖いよ。悲しいよ。独り立ちしたいのに、できないよ。こんなに頑張っているのに。どうしてお母さんは邪魔をするの?
わたしが幸せになることを、応援してくれるひとに育てられたかった。口先でそう言うんじゃなくって。
ほんとうに、わたしの幸せを願ってくれるひとに育てられたかった。
posted by ひろみ at 09:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

お母さんと別れて、寂しい。

お母さんと別れて、寂しい。


お母さんと決別して、はじめて、認められた。


「お母さん」と別れて、寂しい。


この「わたし達」は、たぶん3歳頃のわたしだと思う。


「お母さん」と別れて、寂しい。


わたしがきちんとお母さんと別れたから、やっと認められるようになったんだろう。


わたしは、「お母さん」と別れて、凄く寂しい。悲しい。


悲しいね、わたしよ。

posted by ひろみ at 03:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年07月19日

赤ちゃんみたいに泣けるって、素敵なことだよ。




小さい頃。

とても幼い頃。小学校にも入っていない頃だったと思う。
わたしは、母親に、デパートまで連れられて行った。

デパートの外。
わたしは、母親に、露店のアイスキャンデーを買い与えられた。
そして、母親は、デパートの外にわたしを置いて、デパートのバーゲン会場へ行った。

わたしは、1人だった。
辺りには、誰もいなかった。大人も、子供も、誰もいなかった。
わたしは、敷石のところに座って、アイスキャンデーを食べた。
食べ終わっても、誰もいなかった。
わたし、1人だった。
誰もいなくて、不安だったけど、なにもできなかったし、どこにも行けなかった。
子供1人。

灰色のコンクリートに囲まれて、わたしは一人ぼっちだった。
わたしは、することがなくて(何も持っていなかった)、アイスキャンデーの棒を、裂いた。
濡れて柔らかくなった木を、噛んで、繊維にそって、細く裂きはじめた。
辺りに誰もいない。母親は、どこに行ったのかわからない。
だんだんと、しゅわぁーっと、周りが白い靄で包まれていった。
白っぽい靄の中で、わたし以外、何も見えなくなった。
コンクリートの灰色も、座っている敷石も、何も感じなくなった。
誰もいない空間で、わたしは、何かを感じないように、気づかないように、一心にアイスキャンデーの棒を裂き続けた。
裂いていくうちに、か細い繊維の束になって、筆みたいになることを目指した。

それから、どれくらい時間が経ったか分からない。
気絶して、目が覚めたような気がする。感覚では。
母親が、戻ってきた。でもなんだか現実味がなかった。
「ごめんねーw」と笑って、母親は歩き出した。わたしはぼうっと付いていった。
ぼうっとしている。辺りに現実味がない。
一言、文句を言った気がするが、諦めきった呼吸だった。
母親は、「ごめんねーw」と言った。

それから、記憶が途絶えている。


寂しいはずなのに、何も感じないような気がするのは、解離なのだろう。
⋯⋯と、「何も感じないような気が」と書きかけて、やっと、涙がじわっと沸いてきた。

何も感じないような気がする。
何も感じないような気がする。
何も感じないような気がするという、状態に、涙が出るのだろうか。

とにかく、何も感じないような気がする。
と書くと、涙がじんわりと溢れてくる。
ならば、それが答えなんだろう。

「何も感じないような気がする」と言いながら、やっと涙が流れてくるわたしに、わたしは、途方に暮れている。
何も感じないような気がするこれが、苦しいのだろうか。
責めないから、馬鹿にしたりしないから、その気持ちを聞かせてほしい。
もう、ここに、お母さんは、いないんだよ。
もう、わたしの気持ちを馬鹿にする人は、いないよ。
寂しいって感じることは、いけないことじゃ、ないよ。
いまなら。
いくらでも寂しいって、感じていいんだよ。
寂しいよ。寂しいね。寂しいね。

寂しいって泣くことは、「赤ちゃんみたいでダメなこと」じゃあ、ないよ。
「赤ちゃんみたいだよぉ!」と子供を馬鹿にする母親の声をよく聞くけど、
赤ちゃんみたいなことは、素敵なことだよ。
自分の気持ちを、力いっぱい泣いて表現できる、「赤ちゃんみたいなこと」って、ほんとうに素晴らしいことだよ。
赤ちゃんみたいに泣けるって、とっても素敵なことだよ。
赤ちゃんみたいに、泣こうよ。

わたしよ

posted by ひろみ at 02:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

嫌いなもの



うるさすぎないウェーイ系より、「快活シニカル・僕知的リア充です系」が私は一番嫌いだなあ。
ハキハキ声が通って、小綺麗な女の子1〜2名と、学生ラウンジに少人数で座ってるようなの。

世の中でウケてるものを、何でも「明るく冷笑」する、
僕のような非マッチョ知的センシティブ男子こそがこの世で最もかっこいいんだよね!まぁその価値を理解できるのも少数の、選ばれた、君のような知性もあるけど可愛さを捨てない(それこそが最も知性的な在り方なんだけどそれを分かってる子は少ないよね)女性だけだからね、世間が愚衆なのはこれはもう、しょうがないよ(笑)

な、
一見非マッチョな、高慢の鼻がいきり勃って堂々と上空へ屹立している快活シニカル・僕知的リア充です男子を見ると、

うらぁっ!と掌底突きで顎を天空まで突き上げ飛ばしたくなりますね。


なんででしょうね。同族嫌悪なんですかね。


でもうるさすぎるウェーイ系の方が害悪度においてさらに嫌いですね。

うるさすぎないウェイ系は許容できる。
かれらは基本自分たちの世界に意識が向いてるから、こちらに当て付けるような臭っさいナルシシズムはあまり感じないな。

とことん自分たちに酔った自己目的的ナルシストと、
自らのナルシシズムを当て付ける、「見下し対象」を要する巻き込み型ナルシストでは、後者の方がガン嫌いです。

わたしの母親と父親と、そっくりだぜ。あいつらは。




***



あ、これ『バクマン。』の主人公コンビだな。




***



やっぱうるさすぎるウェーイ系うぜえ!!!!!


ゆらぐ。



posted by ひろみ at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月24日

勇気とは、





「どんな地球上の最凶権力者であろうと、わたし以外は全てゴミ。」


という覚悟がなければ、


「どんなに力無い、ちっぽけな、哀れないのちでも、ほかの何にもおとらずに、大切にしたい。」


という慈悲のこころは、

護られ得ない。



保たれ得ない。



なにかとてもささいな、小さなものを、大切にしたかったら、

もう自分をぺしゃんこに圧し潰してしまうほどの巨大な、恐ろしい敵であろうと。
ぶっ飛ばす。


というカラ元気の、蛮勇を奮う必要がある。


それは虚栄心ではない。
小さなものを大切にしたかったら、自分じしんが自分の生命を護る。覚悟を持たなければいけないんだ。

その覚悟もないままに小さなものを護ろうとしても、
見せかけの、媚び売りの、ペテン師にしかならない。


鬼神よりもおそろしい権力者さえ。
ぶっ飛ばす。


実際にどうなるかどうかではなく、こころのなかの世界で、そういう想像力を奮えるかどうかだ。
幻想力を。



勇気とは、自分の想像力を愛しぬく無邪気な恋心だ。



想像力だ。



想像力を、馬鹿にしては、ならない。



想像力と、友だちになろう。



わたしは、わたしじしんの想像力を愛そう。



そして、
わたしじしんの幻想力を、愛そう。



幻想を、にくんでは、ならない。



幻想は、生命力なんだ。



わたしを追い詰める幻想を、わたしを温める幻想に変えよう。




posted by ひろみ at 13:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月20日

おまえは、どこにいる?




誰もかれも、好きでこの世界に生まれたわけでは無いのに、

まるで「わたしは、生まれたくって、この世に生まれてきました!」とキラキラした顔を見せ
ようとしなくっていいのよ。


そういう顔をすることを、親が要求したからって。


国家が要求したからって。



したくもない表情を造ってやる義務は、全っっっっったく無い。
断言する。


したくもない表情を捏っていきるのは、地獄の所業だ。


ズーンと落ち込んだ、「わたしはいま地獄にいます。」という表情を、そのまま出せばいいのだ。


だって、うしろの「わたし達」が、そういう気持ちを現わしたがっているんだ。


それを邪魔するのは虐待である。






まあ、虐待も、時にはしたっていいんだけど。


この世にしてはいけないことなど、なにもない。


だから、生きられるんだろう?



親どもの、「ここ」だけは見習ったほうがいい。
「ここ」だけは、貪欲に、盗んで生きようじゃないか。



もっと無責任に、周りに迷惑をかけて生きよう。


やつらがそうしてきたように。

そうしてきたからこそ、奴等は生き残れたんだ。

だがそれを、わたし達は、「親のため」ではなく。


自身自身のために、使おう!


そこが彼らとの違いだ。
かれらは、自分の親のために、世間のために、そのスキルを使ってきた。
その結果があれである。


だが、わたし達は。


わたし達は、じぶんじしんの身体と、こころを楽にするために、ひとに迷惑をかけようじゃないか!



だいたい迷惑をかけたところで、何も困りはしないのだ。こちらは。

責任なんか取らなくったって、なんにも問題無いんだ。こっちは。


おまえは、どこに生きている?


あっちか?それともそっちか?





こっちだろうが!





posted by ひろみ at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年06月05日

千葉雅也さんの「ことば」に、癒される。

千葉雅也さんの「ことば」に、癒される。




千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
5月31日
自分がこの世に生まれたこと、他人と違う存在であることの偶然性に耐えられない、そのことによる不安。すべての文化的産物はその隠蔽であると言えるが、いま問題になっているのは、それが強く他者性排除的になっていること。それは、「産まれてこなければ」という無意識にかなりイコールでは、と思う。


なるほどなあ。
私が「無意味」「無理由」「無原因」にたどり着いて、「虐待の理由さがし」地獄から解脱できたのは、千葉雅也さんの著書と、発言を読んだからです。

わたしは、ずっと、生まれてこなければよかったと思っていた。
「生まれてこなければよかった」も、「死にたい」も、半分は、お母さんへの「媚び」であった。
わたしがいなくなればお母さん、喜ぶんでしょ?
わたしが消えれば、お母さん、めんどくさいこと、全部、なくなるよ。
よろこんでよ。わたしに、「よくやったね」って、褒めてよ。


「ありがとう!よく、お母さんの望みどおりに消えてくれたわね、いい子だわ!」って、


褒めてほしかったんだ。




半分はね。




かなしいなあ。





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
6月1日
がんばってやってきたオトコが語る自己責任論の必死感、哀しさ。そう、哀しいトーンがある。哀愁。(そこに他人を巻き込むから害悪なんだ!という批判はわかるし、すべきだろうが、しかしその根底にある哀しさへの「愛」がなければ、社会全体を変容させることはできないだろう。)




がんばってやってきたオトコが語る自己責任論に虐待されてきたので無理です。

わたしは愛しません。

「がんばってやってきたオトコが語る自己責任論」には、反吐が出るほど嫌倦厭しています。


社会を変容させることの大切さは重重承知していますから。


どうぞ、愛せるひとが愛してください。
わたしには無理です。

かといって、「愛せる」ひとたちがあのクソジジイを愛そうとすることを、わたしは止めません。
どうぞ愛してやってください。

わたしには無理です。
わたしに無理なことは、できるひとがやってください。

なんて優しいんだ、わたしは⋯⋯。



ひとには向き不向きがあります。


わたしには愛せません。愛しません。


哀することはできます。

あいっ かなしーみーのあいっ!!
あい・せんしたちッ!!!

高校時代の友人がよくピアノで弾いてたなあ⋯


わたしには哀することが限界なので、愛せるひとはどうぞ愛しますよう。
陰ながら応援するしだいです。


わたしにできないことを、他のひとにお任せする。
これこそは、人が「他者もいる」世界に生きる美点だ。





千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
男子校で、生徒同士の同性性関係が発覚すると、停学とか退学になるという話、あちこちから聞くんだけど、いつもそういうルールを撤廃できないものかと思う。いわゆる不純交遊の問題と、同性愛差別が絡み合っているケース。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
二人でトイレの個室に入ったことがバレたら退学とかね。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
ああいう(しばしば隠されている)ルールって、現代の人権感覚からしたらアウトなんじゃないの。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
男子校に同性性関係の現実があるかと言えばあるのであり、実際BLみたいな状況はたんに腐女子の妄想ではなく、ある程度現実にあることなのだ、と思っていい。


千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 ‪@masayachiba‬
なんか、人狼っていうゲームに抵抗感があるのは、ヘテロ男の社会の中で、実はあいつホモなんだって!というのをすぐに連想するからだろうな。


その感覚はすごくわかるなあ。
最初、ルールを聞いたとき、なんか得体の知れぬ嫌な感じが走ったんだよな。
恐怖に近い感じ。
「へ⋯⋯ へぇー⋯ お、面白いんだろうなぁ〜⋯⋯?」

背すじに走る、なにかに「気づきたくない」怖さ。

千葉さんの発言ではっと腑に落ちたんだよな。
わたしも人間にみえる透明人間だった。

人間にみえる透明人間。



人間にみえる透明人間。



そういう感じ。





***




自虐でもなく、自慢でもなく、自分のインテリ性を、ほがらかに認める。


インテリは、インテリの苦しみから解脱しよう。
インテリであることは、恥ずかしいことじゃあないよ。


かといって逆差別ナルシシズムに陥ることもなく。
インテリさは、ただ、たくさんあるすてきな個性のなかの、ひとつだ。


この素敵さを、揶揄うひとも、やっかむひともいる。私のクソ親父とかな。
それは、他者の美貌を揶揄うように、他者の富貴をやっかむように、
ただ、加害者の、虐めたい欲望の前には、どんなものでも利用される。


被害者のがわには、虐められる「意味」も、「理由」も、「原因」も存在しないんだ。
ほかのすべての個性と、同じように。


だから、自分のインテリさという素敵さを、憎まなくて、いいんだよ。
蔑むのは、やめよう。



インテリは、すてきな個性だよ!





ということを、千葉雅也さんの勉強の哲学 来たるべきバカのために -
勉強の哲学 来たるべきバカのために - を読んで、思いました。
posted by ひろみ at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする