2017年03月19日

わたしは、おんなのひとに触れ、触れられたい。

なんか唐突に思ったんだけど、

母以外のおんなのひとに触れたい。
服の上からではなく、肌で。

一度、触れたことがある。でも童貞である。段階はあるんや。
童貞だけど、そのときの体験は素敵なものであった。

わたしは、性経験の有無や多寡でひとを値踏みするやつが、大嫌いだ。
グロテスクで、品性下劣だと思う。

でも、ひととの関わりの体験レパートリーを増やすことは、じぶんを豊かにすると思う。
特に、私のような、そもそも人生のはじまりから人肌を奪われていたひとにとって、安心できるかたちで他者の肌に触れ、触れてもらうことは、とても満たされる体験になるだろう。

自分のおっぱいをほんのりと握ることに加えて、他者の肌に触れる体験を重ねることは、きっと私を楽しく、人生の喜びをひとつ増やすことになるはずである。

自分の欲望を表現することの難しさを、ためらいを、羞恥を、植えつけたのもやはり加害者たちだ。
嬉し恥ずかしいあの「きいてもらった」喜びを、馬鹿にして、嘲笑して、辱しめた。

でも、あの人たちは、「他人」なんだなあ。
すっかり勘違いしていた。
お母さんは、他人なんだ。
お父さんは、他人なんだ。
私と、sheは別の人間なんだ。
私と、heは別の人間なんだ。
繋がった、一つのカタマリのように、私も勘違いしていたんだ。

わたし、勘違いしてた。

わたしは、「家族」の一部じゃ、なかったんだ。

わたしが罪悪感を抱いていたのは、わたしがおんなのひととおせっくすしたら、「家族」もホモセックスをしたことになると勘違いしていたんだ。
家族も「変態レズ野郎」とのレッテルを貼られることになると、「わたしも」勘違いしていたんだ。
まあそんな差別規範を私にねじ込んで、刷り込んで、植えつけたのは、「家族」たちだがな。
勝手に怯えて。怯えていたのは、わたしなのに。そうですか、そんなに嫌なら勘当すればいいじゃないですか。お前らが世間様と寝続けたいなら、勝手にしろよ。私を、切ればいい。汚れのついた部品になって、残念だったね。私の学歴と、私の性は、切り離せませんよ。
私という便利グッズから、私のセクシュアリティは、切り離せませんよ。
残念だったね。
これからも、かれらは、かれらのせっまい「世間」の中で、私の学歴とか研究成果とかのパーソナルデータを、知り合いの奥様方とか、会社人、取引先の相手とかとの「社交」のなかで、かれらの「格」を上げるマウンティング道具として、使い続けるんだろうな。
でも、「あら、じゃあ、旦那さんはいるの?」とかいった質問を向けられたら、グッと詰まるんだろうな。
でも、「いえ〜結婚するつもりはないみたいでね〜」とか誤魔化すんだろうよ。

一生やってろ。お前らの中で。




そういうわけで。


わたしは、「わたし」に向けられる差別を心配してりゃいいのさ。


「家族」って、他人の集まりを意味しているんだよ。

そういうことに、ぼんやりしてたら、気づかずに生きてしまう。
こういうこと、学校で教えてくれたらよかったのに。


涙がもっと、軽やかに、柔らかに、のびのびと流れ出しますように。

せきとめることもなく、ゆるやかに溢れ出る、豊かな川に


いつかリラックスして、わたしが望む、すてきな相手と、肌を重ねられますように。
わたしの望みは、どんなことでも、望んでいいんだ。


わたしの世界で、わたしの望みは、どこまでも、好い。


どこへ行っても、わたしの望みは、活きていきつづける。


わたし達は、みんなで、生きていく。




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2017年03月16日

「阿Q」な毒父

阿Q正伝 -
阿Q正伝 -


私のお父さんは、魯迅『阿Q正伝』の、「阿Q」だ。

高校時代『阿Q正伝』を読んだときに、なんともいえない哀れさと、惨めさと、おぞましい、他人事ではない不快感に襲われて仕方がなかったわけが、今に至って分かった。


お父さんは、阿Qだったんだ。


多くのアダルトチルドレンが、この阿Qな父親に苦しめられてきたんじゃないだろうか。

私の父親は、団塊世代の毒父だが、驚くほどに阿Qだ。


訳が読みにくい人は、こちら故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫) -
故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫) - を読んでみてもいいかも。



阿Qが親って、ひかえめにいっても地獄だ



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2017年03月12日

上野千鶴子氏にファザーコンプレックスを燃やす人たち




っているよな。


そういう気持ちは、けっこう理解できる。

発言力のある人に、影響力のある人に、
自分の親に満たしてもらえなかった願いを、投影して代行してもらおうとする、もらおうとしてしまう。


そういう願望を向けられたほうはたまったもんじゃない。
ということは大前提としておいて、

素敵な人に、パワーある人に、自分の親がしてくれなかったことを求める気持ちは、わかりすぎるほど分かるのよ

「どうしてあなたがそんなこと言うのーッ!?あなたはそんなこと言わないって信じてたのにー!!!あなたはそんなこと言っちゃダメーッ!!他の有象無象の雑魚はそんなこと言うかもしれないけど、私は、あなただけはそんなこと言わないって、信じてたから安心できたのにーッ!!!裏切ったな!!!ひどいよ!!ひどいよーっ(大号泣)!!!!!」


と泣いている各界の言論人の言葉を見ると、「ああ⋯(身に覚え)。」って思う
若いひとも、歳を重ねたひとも、こういうことは年齢関係ないんだろうな。

そんだけ大きな存在だったんやな、上野さんは。私もすげー!と思うけどさ

といって、凄い人ならものっすごい劇的な打開策を、ドラえもんのポケットから取り出すようにひょいっと取り出してくれるわけじゃない。
そんな幻想を抱かれるほうとしちゃ、「知らねーよ、ひとを神様扱いすんじゃねえ。」って思うと思うよ。


凄い人に出会うと、

「この人ならなんとかしてくれる、私の絶望も、社会の巨問題も、この人なら超絶スーパー華麗な必殺技の一撃で、ぜーんぶ吹っ飛ばしてくれるに違いない。ああ、素敵⋯(感涙)!!!」

の宗教モードに入ってしまう。

くせに、
そういう人たちって、宗教者を馬鹿にする率高いんだよなぁ。


でもさ、自分の外側の、生身の人間に、神様になってもらいたい気持ちはすごく分かるけどさ、

私もそうだったし。


それは、自分も相手も苦しめる方法だよ。



私も、親たちから「神様扱い」されてきた。兄たちにも。


今は、「ふざけんな。死ね。」と思うよ。


自分の外側のなまみのひとに、神様になってもらいたがるひとは、もしかしたら


自分が、神さま扱いされてきたんじゃないの?

誰かから。


だから、
今度は私が他の人に神さまになってもらう番だ。当然、私の神様になってくれるよね?」

と苦しい連鎖を繰り返してしまう。

その気持ちはすごく分かるんだ。


千代田区の一角に、有象無象の人びとの欲望を投影されて、息もできずに締め上げられてる人たちがいる。
「家族」だ。

戸籍も与えられず、苗字もなく、あらゆる基本的人権を剥奪されている。
かれらに神さまを演りつづけてほしい人たちが、かれらを鎖で締め、奴隷にしている。
高貴な家畜にされたその人たちの、いずれかに、早晩、自死する人たちが現れるかもしれない。
家畜人は、いま、東京に拘留されている。


そういう事実を、「生身の人間を神さま扱いしたい」欲望をもつ人たちは、目を逸らしたくてたまらないだろう。


でも、

そういうことをやめたいなら、私もやめたい、ほんとうに自分と他者を苦しめることをやめたいなら、


わたしたち自身のなかに、神さまを生もう。


わたしたち自身のなかに、どんなときでも、絶対にじぶんの味方になってくれる人格を、飼おう。
誰ひとり、じぶんじしんを置いてほかに、じぶんの神さまになってくれる人は、いない。
それを自分の外側に求めることは、生き地獄への道だ。


わたしは、「わたし達」だ。
「わたし達」の一人ひとりの声を聞こう。
あーだこうだと色々なことを言っている。ある一人の言葉と、別の一人の言葉は、食い違うだろう。

そのどれ一人ひとりの言葉も、全部、わたし自身の、たいせつな気持ちなんだ。

矛盾があるのは、当たり前だ。わたしは、「一人」ではないんだから。
たくさんのわたしが、おのおのの抱えきれぬ気持ちを抱えて、それぞれに悲鳴を上げている。
だれか一人が劣っていて、だれか一人が優れているということはない。

ただ、今、抑圧を受けて、身を引っ籠めて泣いている者がいる。
声を殺して、息を殺して、さめざめと、「じぶんが声をあげたら、『わたし達』みんなが駄目になってしまう。死んでしまう。」と、みんなのために自分を殺している子がいる。


まずはその子に、「つらかったね。もう、出てきていいよ。わたし達に、みんなに、あなたの気持ちを聞かせてほしいんだ。」と言ってあげよう。


わたし達の「外側」に、生身の人間に神さまを求めるよりも、ずっと安心できる方法だ。
誰かに、神さまになってもらおうとするのは、やめよう。

じぶんが、ほかの誰かの神さまを演ってあげようとするのは、やめよう。

いままでは、そうするしか、生きることを許してもらえなかった。
でも。

これからは、ほかの誰かの神さまを演ってあげようとするのは、やめよう!
そういう要求をしてくる奴らが現れたら、こう言ってきっぱり断ろう。


「わたしは、わたしじしんの、神さまをやるので手一杯です。」


「おまえの神さまは、おまえがやれ。」



と!







※読みやすくて、超名著。サヨナラ、学校化社会 -
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2017年03月07日

どうしてアダルトチルドレンには恋人がいるんだ!



どうしてアダルトチルドレンには恋人・配偶者がいる率が高いんだ!

相手との関係がうまくいっているか、本人がその関係をどう感じているかはひとまずおいておいて、
〈男性〉のAC本見かけないから、ジェンダー差はよくわからないけど、

どうして、アダルトチルドレンには、非童処が多いんだ!!!
管見のかぎりではAC本著者の配偶者いる(いた)率高いし、どこでとは言わないがACの人たちの話を聞いたり自分の話を聞いてもらったりする場でもやっぱり「彼氏が」「夫が」「彼女が」「元妻が」etc率高いと感じますぞ!
どこにいるんだ非モテACは!!!
VirginなACがいてもいいではないか!!


「年齢=即恋人いない歴なACはおるか!」
「年齢=即恋人いない歴なACはおるか!」
「年齢=即恋人いない歴なACはおるか!」


「ここにいるぞ!!!」


もっと声をあげるんだ、童処アダルトチルドレンたちよ!!英語だとVirginで一括できていいね

今日、道を歩いてたら目の前で交互にほっぺにチュッチュし合うアベックを見た。
超ニコニコ笑いながら、何度も何度もお互いの耳の際にチュッチュしあうアベックを(あえて死語)
私は、(以前よりは涙がでなくなったな)と思って、自分に微笑む気持ちで半死半生のイカの眼をしていた。


二重に言う。

非モテぼっちなレズもいるんです!!!!!!

社交的になるアダルトチルドレンもいるけど、ひとと付き合うのに生きづらさを感じるアダルトチルドレンも、けっこういるはずだ。


ひとりで、



ひとりで、



ひとりでい続けている。



アダルトチルドレンにLGBTQsが重なって、複合的に苦しいひとだって、もう、星の数ほどいるはずだっ!

永田カビさんが、ご自身のことを「童貞おばさん」と形容していたのがなんか面白かった。
私もなんか自分をどう形容したらいいかわからないくて、確かに童貞と心の中で形容してたな。「処女」はあんま使いたくないんやな。
そもそも念願の(R18)なことになって私ごのみのきゅるるん小悪魔ロリ顔ドS(だけど普段は優しい♡)フェムタチの方にあの世の果てまで昇るまでR18していただいたらその翌日からの私をどう形容したらよいのか?

「処女」なのか?「非処女」なのか?

こういう言語体系にも、近代日本語の男根主義的・異性愛強制が現れているのである。思わずキモオタ童貞の妄想を赤裸々に書き綴ってしまうほど、重要な問題なのである。

古代日本がジェンダー的に非差別的だったとは、制度においても実態においても、到底言えん。
でも、言語においては、不思議とユニセックスな表現が日常語として使われているんだよな。
それが崩れ出すのは、武士が台頭し「家」が確立していった院政期あたりからだったと思われる。


それはそれとして、


何を言いたかったんだろう⋯⋯

童貞なアダルトチルドレンだっているんです!!!!!!!
そこのyou!握手したのち斬ってくれる馬岱もいるんだ。

LGBTQsのグループにコミットするのをおそれ躊躇い、二の足を踏んでいるセクマイもいるんじゃでっ!

ひとりをもてあまし、こんなにかったるいなら、1人でもいいか⋯と開き直れそうでいて、やっぱり開き直れない、
この息苦しい家父長制の世界へ、一歩踏み出しかねて躊躇っているアダルトチルドレンのLGBTQsは、きっとそこかしこにいるはずだ。

それが多いか、少ないかは、関係ない。


ただ、「ここにいるぞ!!!」と、叫ぼうではないか!




まずは、ネットから!





posted by ひろみ at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月05日

もしも現代に仇討ち制度があったなら



現代に仇討ち制度があったなら、
私の魂を殺した親たちと、兄を殺しにいくだろう。


海外ドラマの『デクスター』と『ハンニバル』は、
ある種の傷を癒す最も効果的な方法は、相手を殺すことだという、真実を正面から暴いている、傑作だ。
みんなが目を逸らしつづけている、真実を。


わたしは、わたしの魂を殺した家族を、殺す。
ころす。


それが法制度上許されないのなら、

私のこころのなかの家族を、

フィクションの世界における殺しを、

おこなういがい無いではないか。


こころのなかで、より凄惨に、より克明に、より破壊的な徹底的な方法で、
ありありとした手応えと、現実的な肉体の壊れ方を、持ちうるかぎりの想像力で、想像する。
まだ貧困だ。
まだ、イメージが足りない。


こういうとき、フィクションは偉大だ。


ひとは、想像力を、軽んじないほうがいい。
想像力こそ、最後のいのちづなじゃないか。

想像力を笑う者も、フィクションを貶める者も、
自分で自分自身のちからを縛っていることに、気づいていない。

こころのなかで力を蓄える者の、無から有を生み出す、偉大な生命力を、恐れている。
それを使っちゃ、いけないと思っている。

たぶん、こころのなかの「誰か」を恐れているんだろう。
その「誰か」に、こころのなかまで監視されていると思っている。

それは間違いだ。

誰も、なんぴとたりとも、私たちのこころのなかを覗ける人はいない。
自分のなかの、神さま以外は。


こころのなかで家族を殺しているひとは、自分じしんを咎めないであげてほしい。
私たちは、最も力強い、自由な、他害せぬ、そして自分をなにより活き活きと生かす、
尊い勇敢さを奮いたたせて戦っているのだ。


けだかいことだ。

すばらしいことだ。

私たちのこころのなかの家族を殺すことは、最も優しい、いのちを尊ぶ、奴隷の鎖を搔き切るおこないだ。


私は、あなたは、怪物なんかじゃない。


⋯あるいは、怪物に、なってもいいかもしれない。


じぶんじしんの味方になる。なによりもじぶんじしんを大切にする、優しい優しい愛のおこないを、

ほめてあげよう。
偉いぞ、よくやったね。よくぞあの忌まわしいおぞましい人間を、徹底的に、殺し切ってくれたね。

わたし達のために戦ってくれて、ありがとう。

やったね!また、殺ろうね。あの震え上がるような恍惚の感じを、いっぱいいっぱい味わおう。
あの快楽を、なんどもなんども味わおう。
ほんとうに、気持ちよかったなあ。



そうするとだいたい、温かい涙が溢れ出している。



posted by ひろみ at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

「あのひとは、加害者意識をもってくれているに違いない」という、被害者の「願望」。



願望である。


純然たる、願望である。



そこらへんを取り違える奴は一生地を這う⋯⋯!!



とかカイジっぽく言っちゃうが、真実である。



願望であることに気づきたくなくて、被害者は延々と加害者を「いい人」視し続けるのである。


「そうであったら、どんなにいいか」と。


この甘美な妄想願望の魔力に、抗える被害者は稀である。


自己洗脳。




こんなにも酷いことを私にしてきたのだから、お母さんは、お父さんは、少しなりと反省しているに違いない。

表面上は全く意に介していないみたいだけど、それは演技。

むしろ、深い罪悪感を感じているからこそ、自分がやってしまったことの惨酷さを受けいれられず、精神を防衛するために、強いて平気なふりをしているのよ。




涙ぐましいではないですか。



泣きましょう。
いっしょに⋯⋯




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2017年02月26日

無条件に「おめでとう!」と言われるヘテロがうらやましい



「子供が生まれた」とか、「結婚する」とか、そういうことで、無条件に「おめでとう!!!」と誰も彼もに言ってもらえるヘテロが、うらやましい。

誰も、「そう⋯⋯。」って顔を曇らせたり、「ええっ!?」って、「身の程知らずが!」って顔をしたり、絶対しない。

そういうことを、「しちゃいけないことだ」って、全ての人々から思われている。


うらやましくて、たまらない。



ヘテロの人が、うらやましい。





ほんとうに、うらやましい。






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2017年02月25日

「わたし」は、「わたし達」なのかもしれない



最初は一つだった細胞が、分裂に分裂を繰り返して何億個と増えたとき、「胎児」になる。
一つの細胞では、「人間」と呼ばれない。(生命倫理の世界では、論議がある。)

一個の脳細胞では、多分いまの私の意識はうまれないだろう。

脳細胞がいっぱいあって、いまのわたしという意識が在る。

「わたし」をかたちづくる細胞は、複数形なのだ。


じゃあ、「わたし」という意識は、実際は「わたし達」なんじゃないだろうか。


多重人格とか言われている「症状」の人たちは、単にその仕切りがほかの「普通」の人たちよりも、
クッキリしているだけなんじゃないだろうか。

「〇〇なキャラ」という使い方で定着した「キャラ」という言葉も、みんな、一人ひとりがそれぞれに抱えている、「わたし達」のうちの1人を指すのだろう。

その「キャラ」がステレオタイプ化されていることは、どう捉えればいいんだろう。


わたしは、わたし達である。

そのわたし達のうちの1人に、つらいものを、苦しいものを、負わせて押し付けてしまいながらここまで生きてきた。

いま、私は、必死で無視してきたその存在たちと、会話をしている。
ごめんね。つらかったね。助けてあげられなくて、ごめんね。助けてあげたかったよ。ほんとうに、つらかったね。怖かったね。苦しかったね。悔しかったね。助けて、あげたかったんだよ。でもできなかった

そうしているうち、それを続けているうち、少しずつ「わたし達」と話せるようになった。
わたし達は、一人ひとり、この「わたし達」を守るために、分節化しながら、それぞれの役割を負いながら、なんとかわたし達を生かそうと、生き残らせようと、いっしょに生きてきていた。

メインに表に浮かんでくる「わたし」は、その時々によってちがう。
分節化してるときもあるし、ぼんやりと、渾然一体に「わたし」を成しているときもある。

ひとつにもなるし、分節化もする。

いずれにしろ、1人でも多くの「わたし達」が、それぞれみんな楽に、しあわせに、生きられるようにしていきたい。
一部の「わたし達」だけじゃなくて、忘れられた、置き去りにされた、ずっと無視されてきた「わたし達」と、これから、少しずつでいいから、ちゃんと、向き合って生きていきたい。

いままで、無視してきて、ごめん。あなたがいることを、認める。あなたの気持ちを、話してほしい。
無視してきた立場で、虫がいいかもしれないけど。
これからは、少しずつ、前に出てきてほしいんだ。

その邪魔をすることは、もう、
これからは、やめるように気をつけるから。


「わたし達」が、前に出ることを、邪魔するのは、やめよう。



「わたし達」の、気持ちを聞こう。



そして、ゆっくりでいいから、寄り添っていこう。






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2017年02月20日

More 非モテのアダルトチルドレン本.

いやー、いいよなあ永田カビさんのさびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ -
さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ -

超勝手に親近感抱いてるんですが、(現在)恋人がいないAC本であるという点が、特に最高!いやほかにも最高なところありまくるんですがw
田房永子さんの本とかも、超最高で凄く助けられるし癒されているのですが、
恋人がね⋯⋯
パートナーの方がね⋯⋯
いらっしゃる話になると、「ああ⋯⋯;;」って泣きたくなるのよね。
特にパートナーとおせっくすなさっているんですねという話になると、羨望のあまり気が遠くなるんですよね。
ひがみですよ。そらもう。
ひがみますよ〜妬みますよ〜〜
呪いますよ!!
怖いわ!!!

彼女ほぴい!!!って発作的に叫びたくなりますよ!


More,
恋人いないアダルトチルドレン本!!!


posted by ひろみ at 04:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

清水富美加さん。つらいことがあったなら、出家してもいいんじゃない?





つらいことがあって、どうしようもなく苦しいことがあって、今所属している集団・社会・コミュニティが、「自分を助けてくれない」と感じたら、神さまにこころを委ねるのも一つの手だろうよ。


「世」から逃れたいとき、神仏を頼って出家する。


これは、日本の古来よりの伝統だ。
『源氏物語』をはじめ、古典を読めば、いかにも是と頷けるだろう。

過酷な苦境をさまよった女性たちが、自分をモノ扱いする「世」から逃れるのに、
「出家」は、最も有用な自己救済の方法だった。

身分も保障され、迫り来るチンコも撥ね除けられ、「悲しいです。つらいです。この気持ちを私ひとりでは、抱えきれません」と、「世間」や「常識」から離れたところで訴えられる。
唯一の、セーフティネットだった。



よく勘違いする人がいるけど、
神さまを信じることは、「自分の頭で考えない」ことじゃないぜ?


神さまは、支配者でもなんでもない。

神さまを信じるということは、こころの中に一人、どんなときでも絶対に自分の味方になってくれるひとを棲みつかせることなんだよ。

神さまの奴隷になるんじゃない。


神さまこそが、奴隷なんだよ。



どんなひとでも、こころの中に、知らず知らずに神さまを飼っているはずだ。
解離性人格とか、最近言われている「分人」みたいなものだ。


神さまを信じるということは、
こころの中に一人、「どんなときでも絶対に味方になってくれる人格」を飼い、そのひとに寄り添ってもらいながら、自分が望むとおりに生きることです。


主体性の極みである。

「もうひとりのボク」、ってやつだね。



「神なんか信じる奴はバカだ。弱いやつだ。」という人は、自分が「強い」と思っているんだろうか。
自分は、「弱者ではない」と?


そういうひとほど、危険だ。


そういう人も、騙されたと思って、自分のなかに神さまを一匹、飼ってみたらどうだろう?
一匹と言わず、二匹でも三匹でも、なんなら八百万でも飼ってみたらいいかもよ。

いや、自分では認めていないけど、実はもうとっくに飼っているはずだ。
こころに語りかけてみなよ。

「つらいよ、苦しいよ。誰もわたしのことをわかってくれないよ。でも、あなただけは、わかってくれるでしょ?
どいつもこいつもバカで無神経で、全然わたしを思いやってくれないけど。
あなただけは、生まれたときから、ずっとわたしぼくおれを、見守ってくれているよね。
お願い、わかってよ。いま、凄くつらいんだよ。

お願い、

抱きしめてください⋯⋯







って。




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