2017年03月15日

どうせ



どうしたらいいだろう。
いつもここに戻る。

「どうせ」という言葉に、落ち込むときいつも立ち戻っている。


どうせ。


それは、渇望のことばだ。


「死にたい」も、渇望のことばだ。

「これ」でないものを、ほしくてほしくてたまらな過ぎるから、それを与えられなかった時の苦しみは甚大になる。
そのことを知っているから、もらえない未来を先取って、今のうちに絶望の苦しみに備えようとする。

ほしくてほしくて堪らないのに、「もらえないんだ」と必死で自分に言い聞かせている。
「ほしいと望む自分」と、「諦めさせて、苦しみに備えようとする自分」の、せめぎ合いだ。

「わたし達」の、せめぎ合いだ。

どちらの「わたし」も、可能性の世界においてともに正しい。
未来には、もらえる可能性もあるし、もらえない可能性もある。
ただこれまでもらえな過ぎたので、「もらえない」わたしの武力が超強くなってる。
連戦連勝の「もらえない」わたしは、虐待野郎共から毎日、毎夜太鼓判を押されつづけ、
今にいたっては、一騎当千の強度を獲得してしまったのである。

「もらえる」可能性を望むわたしは、タコ殴りである。
ボッコボコである。ジャイアンにギッタギタにされたのび太状態である。
「もらえない」わたしは「オレが正しいやろがぁーッ!!!」と無双状態で「わたし達」のリーダーの座に君臨している。

でも、その「もらえない」わたしも、笑顔で殴ってるわけじゃない。
涙をダラダラ流しながら、駄目なんだよ⋯⋯無理なんだよ⋯⋯と掠れた泣き声を上げながら呆然と目につくものすべてを追い詰められた目で殴っている。
「もらえない」わたしも、自分を倒してくれる「だれか」を望んでいる。
もうこんなのやめたい⋯⋯って一番嘆いてるのは、このわたしだ。



わたしは、兄たちに殴られて、「殺すぞ」と脅されながら生きてきた。

そのことを親たちに訴えても、お母さんは、「お兄ちゃんに妹が逆らったら、怒るのは当たり前でしょ。」と私に言った。
お父さんも、「お前が我慢すれば殴られずに済むんだ。酷いことを言われても我慢しろ。」と私に言い続けた。

私は、納得するしかなかった。できないけど

できないけど、屈服するしかなかった。ここをおいて、ほかに世界は無いのだから。

「家」の外に、世界は無いのだから。


無かった。



嫌な、酷い、侮辱する、尊厳を傷つけることを言われても、女の子が男の子に言われたら、我慢しなければいけないんだろうか。
私が我慢せずに言い返したから、殴られたのか。

年上の子が、年下の子に酷いことを言ったり、やったとしても、年下の子は、我慢しなければいけないのか。
年下の子が、年上の子に逆らって言い返したら、殴られても仕方がないのか。

「お兄ちゃんに、妹が言い返す」のは、とても悪い、不出来なことらしい。
私が悪い子だから、誰も守ってくれなかったのか。「悪い子」って、なんなんだろう。

でも、私は、言い返さずにいたら、もっと縮こまり、顔を伏せて、息もせずに、自分をどんどん嫌になっていって、いつか死ぬだろう。自分を、この自分という存在を嫌になったひとは、死ぬしかなくなる。

私は、「お兄ちゃん」に言い返した。
私を侮辱するやつを、私は許さない、攻撃し返すぞ。と脅すために。
そういう言葉では考えてなかっただろうけど、私はわたしを自衛する、武器を使うぞと、自分を攻撃してくる存在に、宣言したのである。

そうしたら、兄は私を殴った。
お母さんは、「お兄ちゃんに妹が反抗すれば、お兄ちゃんが怒るのは当然だ」と言った。
でも、じゃあ、お母さんは私が傷つけられても、いいんだろうか?
いいんだろうな。全然オッケーなんだろうな。結婚させるための、顔や子宮を傷つけなければ、いくら私が傷つけられてもいいんだろうな。
お父さんは、「嫌なことを言われても、お前が我慢して言い返さずにいれば、殴られずに済むんだ。」と私に説教をした。

私は、言い返したとしても、殴られたくなかったんだ。
私は、嫌な、酷いことを、言われたくなかったんだ。

でも、お父さんは、どちらも我慢しろと私に要求した。
お父さんは、私が傷つけられても、よかったんだろうか?
いいんだろうな。私が傷つけられても、私が我慢していれば、お父さんの世間体は傷つかない。
私が我慢していれば、私の家族みんなが得をするんだ。私は傷ついても。
いつか私が擦り減って、死んだとしても、消耗品の寿命が短くなっただけで。
便利なものが無くなったことに落胆し、寂しさを感じたとしても。
何も、損はしないんだ。

私が助けを求めることは、まちがいだったのか。あの家族の掟では。
それは、助けも、求めなくなる。

いま、私が、助けを求めないのも、言葉で助けを求める方法が分からないのも、
助けを求めることって、ほんとうにいいの?って、信じられない気持ちがするのも、
わけがわからなくて、放り投げているのも、
ボーッとして、全然布団から出られなくて、お腹が空いてるのに、トイレに行きたいのに、ぜんぜん身体を持ち上げることができないのも、
それでもお母さんに「もういいよ、もう頑張らなくていいよ」と言って欲しいと心から願い続けているのも、
自分が頭おかしいんじゃなくて、そのように調教されたのだと、洗脳されたのだと、だから私はこころも身体もふわふわしているのも、何もおかしいことじゃないと、誰かに言ってもらいたくて、自分自身に言ってもらいたくて、こうやってブログに書いて、じぶんで読んでいるんだ。

泣くことは、おかしいことでもなんでもないよ。絶対に。
泣くことは、「バカみたーい!」なことでも、「気持ち悪ぅーい!!」ことでも、なんでもないよ。

泣くことは、おかしいことなんかじゃないよ。

いっぱい泣いて、いいんだよ。
悲しかったね。
つらかったね。

生きていることは、つらいね。

ポジティブになんか、ならなくていいよ。

絶望を、絶望しようよ。

わたしのなかの絶望の声を、希望の声とおなじくらいに、たいせつに、耳を澄まそう。

お母さんが、どうしているんだろう。
お母さんが、いないでほしい。お母さん、お前は、どうしているんだ?
家族なんか、いなければよかったのに。
家族なんかより、ずっと、安心がほしい。
安全がほしい。これから、得られるだろうか

卵から生まれて、水の中を泳いでいく、魚にうまれればよかったのに。

人間が、魚のように生まれればいいのになあ。
安心できるのになあ


悲しいよ⋯



わたしよ



posted by ひろみ at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の生育歴 | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

親たちは、「逆VR」を被っているのか?



お母さんが、あまりにも私の存在を、「いるのに見えてない」ようにしかみえないのが、(今は会ってないので過去形だが)、意味分からなくてしょうがなかった。

どうして、あそこまで、人間ではない、ゴミのように私という存在を⋯⋯というか、存在とすら思ってなかったんじゃないか、と深く思う。

逆VRみたいなことになってんだろうか。
お母さんは、私の存在だけステルス化されるヘッドギアでも被ってたんじゃないか。

他にも色々ステルス化してそうだけど。
都合の悪いことがらはコンマ3秒で抹消されるヘッドギアを被ってるみたいだ。

お母さんとお父さんがいると、私が透明人間になったように感じた。
透明人間にされることは、非ヘテロセクシュアルの存在が抹消されているのと同じくらい、死にそうになる、つらいことだ。

誰かの存在を、抹消できる人はちょっと羨ましい。
私も家族の存在を人生から抹消したい。
ヘテロセクシズムも抹消したい。


お母さんもお父さんも、別々のヘッドギアを被っている。現在進行形で。


そのどちらにも、私は映し出されていない。


親と子、支配者と被支配者の関係は、「意識と肉体」の関係に似ているような気がする。
というかそういうことを言っている人がいたと思う。

私は、身体の感覚が希薄だ。

事故などで「麻痺」が残る人がいるけど、それに近い感覚なのだろうか。
解離しているから、自分の身体が自分の身体と感じづらくなっている⋯というか。

でもなんか、解離以上に、根本的に、自分の身体をうまく操縦しづらい感じがする。
ガンダムのモビルスーツとかの、「乗り込むロボット」の感覚と近い。

私は、乳児期から、親たちによってネグレクトを受けていた。

抱っこされた記憶が無い。
手を繋いでもらった記憶も無い。
おむつを付けた乳児期から、誰もいない家の中に、長時間置き去りにされていた記憶がある。

歩行できるようになっても、外に連れ出してもらえることは無かった。
公園などに連れて行ってもらった記憶も、無い。

お母さんは、「3人目ともなるとテキトーなのよーw」と言っていた。


「遊ぶ」ということが、よくわからなかった。

私は、「探索行動」を取る力を、乳幼児期に、親たちによって奪われていた。
泣きたい気持ちがするけどなんかわからんなあ
泣く一歩手前のとこで呆然としてる感じ
そういう感じでずっと生きてきた。

ずっと顔色を窺っていた。
ここから出られないということは、「この人たち」が私の生殺与奪を握っているということだ。
幼い子供にとっては、特に。

そういうわけで、私は、できるだけ親に泣かないようにしていた。
おむつを換えてほしくても、「今はまずい!」とじっと我慢していたことを覚えている。
泣いて援助を求めたら、「何この子、めんどくさい。やだー!こんな子、要らないから棄てよう。」とお母さんたちが思ってしまうんじゃないか。
きっと棄てただろう。
現に、今も、ずっと棄てられ続けている。
棄てるということは、幅広いんだと思う。

棄てるんだったら、「ちゃんと」棄ててほしかった。
そうしたら、拾ってくれる存在もいたかもしれない。
誰にも拾われずに、かつがつ生き延びる力を得たかもしれない。

こういう人たちは、ちゃんと「棄てる」ことなく、繋ぎながら棄てつづけるのである。

電柱に繋がれた犬を見ると、私はいつも悲しくなる。
寄る辺なく、旅立つこともできない。
あのさみしくそらおそろしい恐怖を、必死に気づかないふりをしている気持ち。

といって、犬に人権は無いのだから、とやかくは言われない。


子供もそうだ。


子供たちは、人権を剥奪されている。

現代の日本社会で、子供たちが家畜禽獣あつかいされていることは、疑いようもない。

家畜禽獣あつかいされていないものは、「当たりクジ」を引いた子供だけだ。


動物であろうと人間であろうと、より多くの存在が、安心して暮らせる社会にしたほうがいいにきまってる。


外れクジを引いた子供たちは、運よく生き残れたものは、こうやって、じぶんのことを掴んでいこう。
私はまだふわふわしている。

親たちが被せたヘッドギアを脱げば、もっと足許がはっきりと、しっかりとするかもしれない。


書きたいことは多いけど、今日はここまでにしよう。






posted by ひろみ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の生育歴 | 更新情報をチェックする