2017年03月27日

『日本一醜い親への手紙』は良著だ。



『日本一醜い親への手紙』は良著だ。

読んで、これほどぐらぐら揺さぶられた、そして救われた本があるだろうか。

日本一醜い親への手紙 -
日本一醜い親への手紙 -


わたしは一人じゃないんだ、って思った。
絶望の話ばかりなのに、光明が差して覚えた。
ほんとうに、光明そのものだった。


グループカウンセリングや、自助グループに行く勇気が出ないひとは、この本を読むと良いと思う。
擬似グループカウンセリングに参加している気分だった。
アダルトチルドレンの、当事者の声が、生々しく身体に響いてきた。

ひとには言ってはいけないのだと思っていたことが、わたしの代わりに言ってくれるひとがいた!
頭がガンガンして、目が回るほど、わたしの胸を解放してくれた。
この本を出してくれて、ほんとうによかったと思った。今も深く思う。


虐待された方から「親への手紙」を 公募中!


その『手紙』の続編を、編纂者の今一生さんが発行しようと企てているらしい。
クラウドファンディングで、本を出すためのお金を公募しているそうです。

また、手紙も募集しているようです。



わたしも出そうかなあ。

この胸の中の塊を、引きずり出して太陽のもとに晒したい。
きっとてらてらと血膿みに濡れ、ぎらぎら光っているだろう。

それを、みんなに見えるように、光を当てたいんだ。

見せたいね。見せよう。
みんなに、このカタマリを見せようじゃないか。

お互いの、「これ」を見せ合ったら、きっと「わたしだけじゃないんだ」とこころから泣けるはずだ。
そして、わらえるはずだ。

肩も安らいで、胸も安らいで、スッキリとした胸の穴を感じられるはずだ。


この本を、出そう。





追記:
今読み返してるけど、泣けて泣けてしょうがない。
このごろ、私は親を「許そう」としてしまっていたなあ。
許さなくていいのにね。他人事だったら「そんなの絶対許しちゃダメだよ!」とか「許さなくていいよ!」って思うのに、
自分のことだと「お母さんも大変だったんだ」とか「お父さんは可哀想な人なんだ」とか、「わたし達」に言い聞かせてしまう。

そんなこと聞かされた「わたし達」の気持ちになってみろってんだよな。

身体を掻き毟るぐらい、お母さんに言われたことが、されたことが、されなかったことが私の内がわから抉りはてているのに、「お母さんとお父さんを許してあげよう」だって?

そりゃあないだろう、わたしよ。

この、身体を掻き毟っている「わたし達」の声を聞こうよ。

ふざけるな!寂しい!!嫌だ!って叫んでるよ。

わたしを空っぽにするのはやめてよ。
posted by ひろみ at 04:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

親に会うことを思うと解離する

今日(昨日)、母親に会ってきた。
必要な書類にサインをしてもらうために。

丸一年ぶりだった。

1週間ほど前、書類に親のサインが必要だと知った時、ほんのすこし気が遠くなる思いがして、その思いを追いやった。
考えたくないので、考えるのを休むことにした。こういうとき休むのは、とても大事だ。
いやだ⋯いやだ⋯という思いを背中の奥に押しやって、ぼんやりと解離しながら生きてきた。

だが、『この世界の片隅に』を劇場で観て、私と親は別々の存在であることに気づいた。
なんでかはめんどくさいので気が向いたら説明する。
親たちは、「他人」だった。そのことを、ようやく身体の中心にストンと降ろせた気がする。
今まで、私は、親が他人だと気づいていなかったんだ。

そのお蔭で、母と会う覚悟ができた。「できるな」と思った。

そして、会ってきた。
でも、朝からすうっと気が遠くなっていた。視界が、画面を観ているような感じ。私というモビルスーツに乗り込んでいる感じ。

私は、親と会うことを想像するだけで、こんなに気が遠くなるのか。あの地獄の家に向かっていると、見慣れた、一年ぶりの景色が、だがどこか異世界に見えた。

こんなにも気が遠くなる自分にこころのなかで笑いながら、「だいじょうぶ。サインをさせたら、すぐに出よう。帰ろう。」とわたしに語りかけていた。
わたし達がいるから、心強い。わたしは、わたし達と好い関係を築きあげつつあることを感じて、嬉しくなった。でもまだまだ、これからなんだろう。まだまだ、眠らされて、押し潰されて、抑圧されているわたし達がいる。そのわたし達と向き合っていくのは、これからの課題だ。

久しぶりに入った家はずいぶん狭く感じられた。ここにいた時は、「それなりに寛げる、いい家じゃないか」と思っていたのに。

母は、窺うような、及び腰の、少しびくびくしているような態度だった。

実は、とんでもなく無神経な、あいも変わらず懲りず全く変化ない態度を取られるかと思って、そうだったらどうしようと思って、物凄く心細い気持ちでいたのだ。

でも、一目見て、「ああ、びくついているな」と思った。

悲しいけど、僅かに安堵した。

この一年、事務的な内容のメール以外は一切無視し続けてきた甲斐があった。
電話は一切出なかった。声を聞きたくないからだ。

父は気持ち悪いメールを送ってきたので受信拒否・着信拒否した。
すると用件をPCメールにも送ってきたので拒否フィルタに加えた。ゴミ箱を恐る恐る見ることがあるが、もう来ていないようだ。希望。

私も母もお互い探り探りの態度でぎこちない会話をした。書類にサインをしてもらって、家族の僅かな近況を聞き、こちらの情況を簡潔に伝えると、幾らかの本をもと自分がいた部屋から持ち出し、若干の手土産を受け取って、立ったまま湯呑みの茶を7割ほど飲み、流しに置いて、「では」と辞して家を出た。

上出来だった。空は雨模様で、灰色、ねずみ色だった。青空でなくてよかったと思った。私の心にそぐわない色をされていたら、嫌だ。

道中、ほっとしたような、悲しいような、何かをぐっと我慢している感じの胸で、景色をぼんやりと見ながら電車に乗って、私の家に帰った。泣きそうだった。実際ふた粒ほど涙が流れた。最近は、通行人に涙を見られてもいいやとある程度思えるようになってきた。いいことだ。

回転寿司に寄って、美味しく食べられた。でも、どこか解離している。胸の奥の筋肉がギチギチ固まっている感じ。
泣きそうで、泣かないように、一生懸命抑え込んでいるのだ。意識してはいないつもりだけど、全身が、全力を使って押さえ込んでいる。
それだけ、わたしには、重労働だったのだろう。
他人事みたいに書いている。まだ解離している証拠である。
早く感じるこころが戻ってきてほしい。
いまは、感じないことよりも、痛くても感じることの方が、わたしには、嬉しいことだ。
感じていいんだよ。
もううちに戻ってきたんだ。いっぱい、感じていいんだよ。こう書いていたら、胸の奥が緩んで、涙が出てきた。少し、解放された感覚。
やっぱり、こうして、書くことは、わたし達を解放することなんだ。
わたしがわたし達に書いて、同時にわたし達が読んでくれている。

もっといっぱい書こう。胸の底から、いっぱい感じていいんだよ。
感じていいよ。だいじょうぶ。

もう、ここにはお母さんはいないよ。

よかったあ

よかった

ほんとうに、よかった

お母さんは、いないよ。だいじょうぶ。怖かったねえ。

ほんとうに、こわかったねえ。
こわかった。
こわかった。

ほんと、こわかったよ、わたし

わたしは、ほんとうに、こわかった。


こわかった⋯

posted by ひろみ at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

わたしは、おんなのひとに触れ、触れられたい。

なんか唐突に思ったんだけど、

母以外のおんなのひとに触れたい。
服の上からではなく、肌で。

一度、触れたことがある。でも童貞である。段階はあるんや。
童貞だけど、そのときの体験は素敵なものであった。

わたしは、性経験の有無や多寡でひとを値踏みするやつが、大嫌いだ。
グロテスクで、品性下劣だと思う。

でも、ひととの関わりの体験レパートリーを増やすことは、じぶんを豊かにすると思う。
特に、私のような、そもそも人生のはじまりから人肌を奪われていたひとにとって、安心できるかたちで他者の肌に触れ、触れてもらうことは、とても満たされる体験になるだろう。

自分のおっぱいをほんのりと握ることに加えて、他者の肌に触れる体験を重ねることは、きっと私を楽しく、人生の喜びをひとつ増やすことになるはずである。

自分の欲望を表現することの難しさを、ためらいを、羞恥を、植えつけたのもやはり加害者たちだ。
嬉し恥ずかしいあの「きいてもらった」喜びを、馬鹿にして、嘲笑して、辱しめた。

でも、あの人たちは、「他人」なんだなあ。
すっかり勘違いしていた。
お母さんは、他人なんだ。
お父さんは、他人なんだ。
私と、sheは別の人間なんだ。
私と、heは別の人間なんだ。
繋がった、一つのカタマリのように、私も勘違いしていたんだ。

わたし、勘違いしてた。

わたしは、「家族」の一部じゃ、なかったんだ。

わたしが罪悪感を抱いていたのは、わたしがおんなのひととおせっくすしたら、「家族」もホモセックスをしたことになると勘違いしていたんだ。
家族も「変態レズ野郎」とのレッテルを貼られることになると、「わたしも」勘違いしていたんだ。
まあそんな差別規範を私にねじ込んで、刷り込んで、植えつけたのは、「家族」たちだがな。
勝手に怯えて。怯えていたのは、わたしなのに。そうですか、そんなに嫌なら勘当すればいいじゃないですか。お前らが世間様と寝続けたいなら、勝手にしろよ。私を、切ればいい。汚れのついた部品になって、残念だったね。私の学歴と、私の性は、切り離せませんよ。
私という便利グッズから、私のセクシュアリティは、切り離せませんよ。
残念だったね。
これからも、かれらは、かれらのせっまい「世間」の中で、私の学歴とか研究成果とかのパーソナルデータを、知り合いの奥様方とか、会社人、取引先の相手とかとの「社交」のなかで、かれらの「格」を上げるマウンティング道具として、使い続けるんだろうな。
でも、「あら、じゃあ、旦那さんはいるの?」とかいった質問を向けられたら、グッと詰まるんだろうな。
でも、「いえ〜結婚するつもりはないみたいでね〜」とか誤魔化すんだろうよ。

一生やってろ。お前らの中で。




そういうわけで。


わたしは、「わたし」に向けられる差別を心配してりゃいいのさ。


「家族」って、他人の集まりを意味しているんだよ。

そういうことに、ぼんやりしてたら、気づかずに生きてしまう。
こういうこと、学校で教えてくれたらよかったのに。


涙がもっと、軽やかに、柔らかに、のびのびと流れ出しますように。

せきとめることもなく、ゆるやかに溢れ出る、豊かな川に


いつかリラックスして、わたしが望む、すてきな相手と、肌を重ねられますように。
わたしの望みは、どんなことでも、望んでいいんだ。


わたしの世界で、わたしの望みは、どこまでも、好い。


どこへ行っても、わたしの望みは、活きていきつづける。


わたし達は、みんなで、生きていく。




posted by ひろみ at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月16日

「阿Q」な毒父

阿Q正伝 -
阿Q正伝 -


私のお父さんは、魯迅『阿Q正伝』の、「阿Q」だ。

高校時代『阿Q正伝』を読んだときに、なんともいえない哀れさと、惨めさと、おぞましい、他人事ではない不快感に襲われて仕方がなかったわけが、今に至って分かった。


お父さんは、阿Qだったんだ。


多くのアダルトチルドレンが、この阿Qな父親に苦しめられてきたんじゃないだろうか。

私の父親は、団塊世代の毒父だが、驚くほどに阿Qだ。


訳が読みにくい人は、こちら故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫) -
故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫) - を読んでみてもいいかも。



阿Qが親って、ひかえめにいっても地獄だ



posted by ひろみ at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月15日

どうせ



どうしたらいいだろう。
いつもここに戻る。

「どうせ」という言葉に、落ち込むときいつも立ち戻っている。


どうせ。


それは、渇望のことばだ。


「死にたい」も、渇望のことばだ。

「これ」でないものを、ほしくてほしくてたまらな過ぎるから、それを与えられなかった時の苦しみは甚大になる。
そのことを知っているから、もらえない未来を先取って、今のうちに絶望の苦しみに備えようとする。

ほしくてほしくて堪らないのに、「もらえないんだ」と必死で自分に言い聞かせている。
「ほしいと望む自分」と、「諦めさせて、苦しみに備えようとする自分」の、せめぎ合いだ。

「わたし達」の、せめぎ合いだ。

どちらの「わたし」も、可能性の世界においてともに正しい。
未来には、もらえる可能性もあるし、もらえない可能性もある。
ただこれまでもらえな過ぎたので、「もらえない」わたしの武力が超強くなってる。
連戦連勝の「もらえない」わたしは、虐待野郎共から毎日、毎夜太鼓判を押されつづけ、
今にいたっては、一騎当千の強度を獲得してしまったのである。

「もらえる」可能性を望むわたしは、タコ殴りである。
ボッコボコである。ジャイアンにギッタギタにされたのび太状態である。
「もらえない」わたしは「オレが正しいやろがぁーッ!!!」と無双状態で「わたし達」のリーダーの座に君臨している。

でも、その「もらえない」わたしも、笑顔で殴ってるわけじゃない。
涙をダラダラ流しながら、駄目なんだよ⋯⋯無理なんだよ⋯⋯と掠れた泣き声を上げながら呆然と目につくものすべてを追い詰められた目で殴っている。
「もらえない」わたしも、自分を倒してくれる「だれか」を望んでいる。
もうこんなのやめたい⋯⋯って一番嘆いてるのは、このわたしだ。



わたしは、兄たちに殴られて、「殺すぞ」と脅されながら生きてきた。

そのことを親たちに訴えても、お母さんは、「お兄ちゃんに妹が逆らったら、怒るのは当たり前でしょ。」と私に言った。
お父さんも、「お前が我慢すれば殴られずに済むんだ。酷いことを言われても我慢しろ。」と私に言い続けた。

私は、納得するしかなかった。できないけど

できないけど、屈服するしかなかった。ここをおいて、ほかに世界は無いのだから。

「家」の外に、世界は無いのだから。


無かった。



嫌な、酷い、侮辱する、尊厳を傷つけることを言われても、女の子が男の子に言われたら、我慢しなければいけないんだろうか。
私が我慢せずに言い返したから、殴られたのか。

年上の子が、年下の子に酷いことを言ったり、やったとしても、年下の子は、我慢しなければいけないのか。
年下の子が、年上の子に逆らって言い返したら、殴られても仕方がないのか。

「お兄ちゃんに、妹が言い返す」のは、とても悪い、不出来なことらしい。
私が悪い子だから、誰も守ってくれなかったのか。「悪い子」って、なんなんだろう。

でも、私は、言い返さずにいたら、もっと縮こまり、顔を伏せて、息もせずに、自分をどんどん嫌になっていって、いつか死ぬだろう。自分を、この自分という存在を嫌になったひとは、死ぬしかなくなる。

私は、「お兄ちゃん」に言い返した。
私を侮辱するやつを、私は許さない、攻撃し返すぞ。と脅すために。
そういう言葉では考えてなかっただろうけど、私はわたしを自衛する、武器を使うぞと、自分を攻撃してくる存在に、宣言したのである。

そうしたら、兄は私を殴った。
お母さんは、「お兄ちゃんに妹が反抗すれば、お兄ちゃんが怒るのは当然だ」と言った。
でも、じゃあ、お母さんは私が傷つけられても、いいんだろうか?
いいんだろうな。全然オッケーなんだろうな。結婚させるための、顔や子宮を傷つけなければ、いくら私が傷つけられてもいいんだろうな。
お父さんは、「嫌なことを言われても、お前が我慢して言い返さずにいれば、殴られずに済むんだ。」と私に説教をした。

私は、言い返したとしても、殴られたくなかったんだ。
私は、嫌な、酷いことを、言われたくなかったんだ。

でも、お父さんは、どちらも我慢しろと私に要求した。
お父さんは、私が傷つけられても、よかったんだろうか?
いいんだろうな。私が傷つけられても、私が我慢していれば、お父さんの世間体は傷つかない。
私が我慢していれば、私の家族みんなが得をするんだ。私は傷ついても。
いつか私が擦り減って、死んだとしても、消耗品の寿命が短くなっただけで。
便利なものが無くなったことに落胆し、寂しさを感じたとしても。
何も、損はしないんだ。

私が助けを求めることは、まちがいだったのか。あの家族の掟では。
それは、助けも、求めなくなる。

いま、私が、助けを求めないのも、言葉で助けを求める方法が分からないのも、
助けを求めることって、ほんとうにいいの?って、信じられない気持ちがするのも、
わけがわからなくて、放り投げているのも、
ボーッとして、全然布団から出られなくて、お腹が空いてるのに、トイレに行きたいのに、ぜんぜん身体を持ち上げることができないのも、
それでもお母さんに「もういいよ、もう頑張らなくていいよ」と言って欲しいと心から願い続けているのも、
自分が頭おかしいんじゃなくて、そのように調教されたのだと、洗脳されたのだと、だから私はこころも身体もふわふわしているのも、何もおかしいことじゃないと、誰かに言ってもらいたくて、自分自身に言ってもらいたくて、こうやってブログに書いて、じぶんで読んでいるんだ。

泣くことは、おかしいことでもなんでもないよ。絶対に。
泣くことは、「バカみたーい!」なことでも、「気持ち悪ぅーい!!」ことでも、なんでもないよ。

泣くことは、おかしいことなんかじゃないよ。

いっぱい泣いて、いいんだよ。
悲しかったね。
つらかったね。

生きていることは、つらいね。

ポジティブになんか、ならなくていいよ。

絶望を、絶望しようよ。

わたしのなかの絶望の声を、希望の声とおなじくらいに、たいせつに、耳を澄まそう。

お母さんが、どうしているんだろう。
お母さんが、いないでほしい。お母さん、お前は、どうしているんだ?
家族なんか、いなければよかったのに。
家族なんかより、ずっと、安心がほしい。
安全がほしい。これから、得られるだろうか

卵から生まれて、水の中を泳いでいく、魚にうまれればよかったのに。

人間が、魚のように生まれればいいのになあ。
安心できるのになあ


悲しいよ⋯



わたしよ



posted by ひろみ at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の生育歴 | 更新情報をチェックする

2017年03月12日

上野千鶴子氏にファザーコンプレックスを燃やす人たち




っているよな。


そういう気持ちは、けっこう理解できる。

発言力のある人に、影響力のある人に、
自分の親に満たしてもらえなかった願いを、投影して代行してもらおうとする、もらおうとしてしまう。


そういう願望を向けられたほうはたまったもんじゃない。
ということは大前提としておいて、

素敵な人に、パワーある人に、自分の親がしてくれなかったことを求める気持ちは、わかりすぎるほど分かるのよ

「どうしてあなたがそんなこと言うのーッ!?あなたはそんなこと言わないって信じてたのにー!!!あなたはそんなこと言っちゃダメーッ!!他の有象無象の雑魚はそんなこと言うかもしれないけど、私は、あなただけはそんなこと言わないって、信じてたから安心できたのにーッ!!!裏切ったな!!!ひどいよ!!ひどいよーっ(大号泣)!!!!!」


と泣いている各界の言論人の言葉を見ると、「ああ⋯(身に覚え)。」って思う
若いひとも、歳を重ねたひとも、こういうことは年齢関係ないんだろうな。

そんだけ大きな存在だったんやな、上野さんは。私もすげー!と思うけどさ

といって、凄い人ならものっすごい劇的な打開策を、ドラえもんのポケットから取り出すようにひょいっと取り出してくれるわけじゃない。
そんな幻想を抱かれるほうとしちゃ、「知らねーよ、ひとを神様扱いすんじゃねえ。」って思うと思うよ。


凄い人に出会うと、

「この人ならなんとかしてくれる、私の絶望も、社会の巨問題も、この人なら超絶スーパー華麗な必殺技の一撃で、ぜーんぶ吹っ飛ばしてくれるに違いない。ああ、素敵⋯(感涙)!!!」

の宗教モードに入ってしまう。

くせに、
そういう人たちって、宗教者を馬鹿にする率高いんだよなぁ。


でもさ、自分の外側の、生身の人間に、神様になってもらいたい気持ちはすごく分かるけどさ、

私もそうだったし。


それは、自分も相手も苦しめる方法だよ。



私も、親たちから「神様扱い」されてきた。兄たちにも。


今は、「ふざけんな。死ね。」と思うよ。


自分の外側のなまみのひとに、神様になってもらいたがるひとは、もしかしたら


自分が、神さま扱いされてきたんじゃないの?

誰かから。


だから、
今度は私が他の人に神さまになってもらう番だ。当然、私の神様になってくれるよね?」

と苦しい連鎖を繰り返してしまう。

その気持ちはすごく分かるんだ。


千代田区の一角に、有象無象の人びとの欲望を投影されて、息もできずに締め上げられてる人たちがいる。
「家族」だ。

戸籍も与えられず、苗字もなく、あらゆる基本的人権を剥奪されている。
かれらに神さまを演りつづけてほしい人たちが、かれらを鎖で締め、奴隷にしている。
高貴な家畜にされたその人たちの、いずれかに、早晩、自死する人たちが現れるかもしれない。
家畜人は、いま、東京に拘留されている。


そういう事実を、「生身の人間を神さま扱いしたい」欲望をもつ人たちは、目を逸らしたくてたまらないだろう。


でも、

そういうことをやめたいなら、私もやめたい、ほんとうに自分と他者を苦しめることをやめたいなら、


わたしたち自身のなかに、神さまを生もう。


わたしたち自身のなかに、どんなときでも、絶対にじぶんの味方になってくれる人格を、飼おう。
誰ひとり、じぶんじしんを置いてほかに、じぶんの神さまになってくれる人は、いない。
それを自分の外側に求めることは、生き地獄への道だ。


わたしは、「わたし達」だ。
「わたし達」の一人ひとりの声を聞こう。
あーだこうだと色々なことを言っている。ある一人の言葉と、別の一人の言葉は、食い違うだろう。

そのどれ一人ひとりの言葉も、全部、わたし自身の、たいせつな気持ちなんだ。

矛盾があるのは、当たり前だ。わたしは、「一人」ではないんだから。
たくさんのわたしが、おのおのの抱えきれぬ気持ちを抱えて、それぞれに悲鳴を上げている。
だれか一人が劣っていて、だれか一人が優れているということはない。

ただ、今、抑圧を受けて、身を引っ籠めて泣いている者がいる。
声を殺して、息を殺して、さめざめと、「じぶんが声をあげたら、『わたし達』みんなが駄目になってしまう。死んでしまう。」と、みんなのために自分を殺している子がいる。


まずはその子に、「つらかったね。もう、出てきていいよ。わたし達に、みんなに、あなたの気持ちを聞かせてほしいんだ。」と言ってあげよう。


わたし達の「外側」に、生身の人間に神さまを求めるよりも、ずっと安心できる方法だ。
誰かに、神さまになってもらおうとするのは、やめよう。

じぶんが、ほかの誰かの神さまを演ってあげようとするのは、やめよう。

いままでは、そうするしか、生きることを許してもらえなかった。
でも。

これからは、ほかの誰かの神さまを演ってあげようとするのは、やめよう!
そういう要求をしてくる奴らが現れたら、こう言ってきっぱり断ろう。


「わたしは、わたしじしんの、神さまをやるので手一杯です。」


「おまえの神さまは、おまえがやれ。」



と!







※読みやすくて、超名著。サヨナラ、学校化社会 -
posted by ひろみ at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

親たちは、「逆VR」を被っているのか?



お母さんが、あまりにも私の存在を、「いるのに見えてない」ようにしかみえないのが、(今は会ってないので過去形だが)、意味分からなくてしょうがなかった。

どうして、あそこまで、人間ではない、ゴミのように私という存在を⋯⋯というか、存在とすら思ってなかったんじゃないか、と深く思う。

逆VRみたいなことになってんだろうか。
お母さんは、私の存在だけステルス化されるヘッドギアでも被ってたんじゃないか。

他にも色々ステルス化してそうだけど。
都合の悪いことがらはコンマ3秒で抹消されるヘッドギアを被ってるみたいだ。

お母さんとお父さんがいると、私が透明人間になったように感じた。
透明人間にされることは、非ヘテロセクシュアルの存在が抹消されているのと同じくらい、死にそうになる、つらいことだ。

誰かの存在を、抹消できる人はちょっと羨ましい。
私も家族の存在を人生から抹消したい。
ヘテロセクシズムも抹消したい。


お母さんもお父さんも、別々のヘッドギアを被っている。現在進行形で。


そのどちらにも、私は映し出されていない。


親と子、支配者と被支配者の関係は、「意識と肉体」の関係に似ているような気がする。
というかそういうことを言っている人がいたと思う。

私は、身体の感覚が希薄だ。

事故などで「麻痺」が残る人がいるけど、それに近い感覚なのだろうか。
解離しているから、自分の身体が自分の身体と感じづらくなっている⋯というか。

でもなんか、解離以上に、根本的に、自分の身体をうまく操縦しづらい感じがする。
ガンダムのモビルスーツとかの、「乗り込むロボット」の感覚と近い。

私は、乳児期から、親たちによってネグレクトを受けていた。

抱っこされた記憶が無い。
手を繋いでもらった記憶も無い。
おむつを付けた乳児期から、誰もいない家の中に、長時間置き去りにされていた記憶がある。

歩行できるようになっても、外に連れ出してもらえることは無かった。
公園などに連れて行ってもらった記憶も、無い。

お母さんは、「3人目ともなるとテキトーなのよーw」と言っていた。


「遊ぶ」ということが、よくわからなかった。

私は、「探索行動」を取る力を、乳幼児期に、親たちによって奪われていた。
泣きたい気持ちがするけどなんかわからんなあ
泣く一歩手前のとこで呆然としてる感じ
そういう感じでずっと生きてきた。

ずっと顔色を窺っていた。
ここから出られないということは、「この人たち」が私の生殺与奪を握っているということだ。
幼い子供にとっては、特に。

そういうわけで、私は、できるだけ親に泣かないようにしていた。
おむつを換えてほしくても、「今はまずい!」とじっと我慢していたことを覚えている。
泣いて援助を求めたら、「何この子、めんどくさい。やだー!こんな子、要らないから棄てよう。」とお母さんたちが思ってしまうんじゃないか。
きっと棄てただろう。
現に、今も、ずっと棄てられ続けている。
棄てるということは、幅広いんだと思う。

棄てるんだったら、「ちゃんと」棄ててほしかった。
そうしたら、拾ってくれる存在もいたかもしれない。
誰にも拾われずに、かつがつ生き延びる力を得たかもしれない。

こういう人たちは、ちゃんと「棄てる」ことなく、繋ぎながら棄てつづけるのである。

電柱に繋がれた犬を見ると、私はいつも悲しくなる。
寄る辺なく、旅立つこともできない。
あのさみしくそらおそろしい恐怖を、必死に気づかないふりをしている気持ち。

といって、犬に人権は無いのだから、とやかくは言われない。


子供もそうだ。


子供たちは、人権を剥奪されている。

現代の日本社会で、子供たちが家畜禽獣あつかいされていることは、疑いようもない。

家畜禽獣あつかいされていないものは、「当たりクジ」を引いた子供だけだ。


動物であろうと人間であろうと、より多くの存在が、安心して暮らせる社会にしたほうがいいにきまってる。


外れクジを引いた子供たちは、運よく生き残れたものは、こうやって、じぶんのことを掴んでいこう。
私はまだふわふわしている。

親たちが被せたヘッドギアを脱げば、もっと足許がはっきりと、しっかりとするかもしれない。


書きたいことは多いけど、今日はここまでにしよう。






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2017年03月07日

どうしてアダルトチルドレンには恋人がいるんだ!



どうしてアダルトチルドレンには恋人・配偶者がいる率が高いんだ!

相手との関係がうまくいっているか、本人がその関係をどう感じているかはひとまずおいておいて、
〈男性〉のAC本見かけないから、ジェンダー差はよくわからないけど、

どうして、アダルトチルドレンには、非童処が多いんだ!!!
管見のかぎりではAC本著者の配偶者いる(いた)率高いし、どこでとは言わないがACの人たちの話を聞いたり自分の話を聞いてもらったりする場でもやっぱり「彼氏が」「夫が」「彼女が」「元妻が」etc率高いと感じますぞ!
どこにいるんだ非モテACは!!!
VirginなACがいてもいいではないか!!


「年齢=即恋人いない歴なACはおるか!」
「年齢=即恋人いない歴なACはおるか!」
「年齢=即恋人いない歴なACはおるか!」


「ここにいるぞ!!!」


もっと声をあげるんだ、童処アダルトチルドレンたちよ!!英語だとVirginで一括できていいね

今日、道を歩いてたら目の前で交互にほっぺにチュッチュし合うアベックを見た。
超ニコニコ笑いながら、何度も何度もお互いの耳の際にチュッチュしあうアベックを(あえて死語)
私は、(以前よりは涙がでなくなったな)と思って、自分に微笑む気持ちで半死半生のイカの眼をしていた。


二重に言う。

非モテぼっちなレズもいるんです!!!!!!

社交的になるアダルトチルドレンもいるけど、ひとと付き合うのに生きづらさを感じるアダルトチルドレンも、けっこういるはずだ。


ひとりで、



ひとりで、



ひとりでい続けている。



アダルトチルドレンにLGBTQsが重なって、複合的に苦しいひとだって、もう、星の数ほどいるはずだっ!

永田カビさんが、ご自身のことを「童貞おばさん」と形容していたのがなんか面白かった。
私もなんか自分をどう形容したらいいかわからないくて、確かに童貞と心の中で形容してたな。「処女」はあんま使いたくないんやな。
そもそも念願の(R18)なことになって私ごのみのきゅるるん小悪魔ロリ顔ドS(だけど普段は優しい♡)フェムタチの方にあの世の果てまで昇るまでR18していただいたらその翌日からの私をどう形容したらよいのか?

「処女」なのか?「非処女」なのか?

こういう言語体系にも、近代日本語の男根主義的・異性愛強制が現れているのである。思わずキモオタ童貞の妄想を赤裸々に書き綴ってしまうほど、重要な問題なのである。

古代日本がジェンダー的に非差別的だったとは、制度においても実態においても、到底言えん。
でも、言語においては、不思議とユニセックスな表現が日常語として使われているんだよな。
それが崩れ出すのは、武士が台頭し「家」が確立していった院政期あたりからだったと思われる。


それはそれとして、


何を言いたかったんだろう⋯⋯

童貞なアダルトチルドレンだっているんです!!!!!!!
そこのyou!握手したのち斬ってくれる馬岱もいるんだ。

LGBTQsのグループにコミットするのをおそれ躊躇い、二の足を踏んでいるセクマイもいるんじゃでっ!

ひとりをもてあまし、こんなにかったるいなら、1人でもいいか⋯と開き直れそうでいて、やっぱり開き直れない、
この息苦しい家父長制の世界へ、一歩踏み出しかねて躊躇っているアダルトチルドレンのLGBTQsは、きっとそこかしこにいるはずだ。

それが多いか、少ないかは、関係ない。


ただ、「ここにいるぞ!!!」と、叫ぼうではないか!




まずは、ネットから!





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2017年03月05日

もしも現代に仇討ち制度があったなら



現代に仇討ち制度があったなら、
私の魂を殺した親たちと、兄を殺しにいくだろう。


海外ドラマの『デクスター』と『ハンニバル』は、
ある種の傷を癒す最も効果的な方法は、相手を殺すことだという、真実を正面から暴いている、傑作だ。
みんなが目を逸らしつづけている、真実を。


わたしは、わたしの魂を殺した家族を、殺す。
ころす。


それが法制度上許されないのなら、

私のこころのなかの家族を、

フィクションの世界における殺しを、

おこなういがい無いではないか。


こころのなかで、より凄惨に、より克明に、より破壊的な徹底的な方法で、
ありありとした手応えと、現実的な肉体の壊れ方を、持ちうるかぎりの想像力で、想像する。
まだ貧困だ。
まだ、イメージが足りない。


こういうとき、フィクションは偉大だ。


ひとは、想像力を、軽んじないほうがいい。
想像力こそ、最後のいのちづなじゃないか。

想像力を笑う者も、フィクションを貶める者も、
自分で自分自身のちからを縛っていることに、気づいていない。

こころのなかで力を蓄える者の、無から有を生み出す、偉大な生命力を、恐れている。
それを使っちゃ、いけないと思っている。

たぶん、こころのなかの「誰か」を恐れているんだろう。
その「誰か」に、こころのなかまで監視されていると思っている。

それは間違いだ。

誰も、なんぴとたりとも、私たちのこころのなかを覗ける人はいない。
自分のなかの、神さま以外は。


こころのなかで家族を殺しているひとは、自分じしんを咎めないであげてほしい。
私たちは、最も力強い、自由な、他害せぬ、そして自分をなにより活き活きと生かす、
尊い勇敢さを奮いたたせて戦っているのだ。


けだかいことだ。

すばらしいことだ。

私たちのこころのなかの家族を殺すことは、最も優しい、いのちを尊ぶ、奴隷の鎖を搔き切るおこないだ。


私は、あなたは、怪物なんかじゃない。


⋯あるいは、怪物に、なってもいいかもしれない。


じぶんじしんの味方になる。なによりもじぶんじしんを大切にする、優しい優しい愛のおこないを、

ほめてあげよう。
偉いぞ、よくやったね。よくぞあの忌まわしいおぞましい人間を、徹底的に、殺し切ってくれたね。

わたし達のために戦ってくれて、ありがとう。

やったね!また、殺ろうね。あの震え上がるような恍惚の感じを、いっぱいいっぱい味わおう。
あの快楽を、なんどもなんども味わおう。
ほんとうに、気持ちよかったなあ。



そうするとだいたい、温かい涙が溢れ出している。



posted by ひろみ at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月04日

タクシーの夢

数ヶ月前に見た夢。



私は、なんか、急にタクシーの運転手に「早く乗れ」と要求され、ドアの開いた後部座席に、強いられるままに座った。「早く乗れ!」と(無言だが)、激しい、うむを言わさぬ気迫で呼び込まれたから、慌てて乗り込むしかなかった。なんか大変なことになるのだろうと思ったから、乗る以外選べなかった。

タクシーは、無言で私を連れ走った。
不気味なその運転手は、押し黙り、男か女かもよく分からなかった。
私に背を向けたまま、黙って、猛スピードで車を走らせている。なぜか、ひどく興奮している様子だった。肩と背中で激しく息をしている。
私は、怖くて、でも何も尋ねなかった。
尋ねてはいけないと思っていたのだろう。

タクシーは、やがて、教習所?のような所に着いた。何か、公民館のような、薄暗く、しーんとした施設だった。

私は、バスの車両?の中に入れられた。
中には、私と年格好の近い(※現在27歳)十数人の若い人たちがいた。
みんな、不安そうな様子をしていた。みんな、どうしてここに連れて来られたのか、わからないみたいだった。
狭い空間に多人数で押し詰められていたのを、誰かが私にダンボールの切れっぱしをくれた。
私はそれを山折りにして、自分の顔を隠すようにした。
こんなみすぼらしいものでしか、プライベート空間をつくれないのだ。

試験官のような人が現れた。
バスの外。試験官のそばには、一枚のダンボールでできた、粗末なボードが立てられていた。
そこにマジックで「表」のようなものが書かれていた。
表の左端には、私(と多分ほかの人達)の、苗字が書かれていた。ドキッとした。

試験官は、タクシーの運転手たちの成績を付ける人らしい。

試験官は、私の苗字の横に、◯を付けた。私はほっとした。
私のせいで、私を運んできたタクシーの運転手さんの成績を落としてしまうかもしれない、そうなったら大変だ、と思っていたから、私の項目にマルをもらえて、嬉しかった。
ほかの人の項目に、バツが書かれるのを見た。ドキッとした。かわいそうだなと思った。
みんなこうやって、◯や×を付けられていく。
それが怖くて、不安だけど、誰も、みんな、自分のダンボールの中でびくびくしながらそうっと周りを窺っていた。



それから、目が覚めた。


私は、試験官が◯を付けた表に、私の苗字しか書かれてなかったのを思った。

私の「名前」は、書かれていなかった。

あの試験官は、それでタクシーの運転手の成績付けをしていたのだ。


でも、その夢では、私たちの何に◯や×を付けられているのか、さっぱり分からなかった。





posted by ひろみ at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

「あのひとは、加害者意識をもってくれているに違いない」という、被害者の「願望」。



願望である。


純然たる、願望である。



そこらへんを取り違える奴は一生地を這う⋯⋯!!



とかカイジっぽく言っちゃうが、真実である。



願望であることに気づきたくなくて、被害者は延々と加害者を「いい人」視し続けるのである。


「そうであったら、どんなにいいか」と。


この甘美な妄想願望の魔力に、抗える被害者は稀である。


自己洗脳。




こんなにも酷いことを私にしてきたのだから、お母さんは、お父さんは、少しなりと反省しているに違いない。

表面上は全く意に介していないみたいだけど、それは演技。

むしろ、深い罪悪感を感じているからこそ、自分がやってしまったことの惨酷さを受けいれられず、精神を防衛するために、強いて平気なふりをしているのよ。




涙ぐましいではないですか。



泣きましょう。
いっしょに⋯⋯




posted by ひろみ at 02:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

無条件に「おめでとう!」と言われるヘテロがうらやましい



「子供が生まれた」とか、「結婚する」とか、そういうことで、無条件に「おめでとう!!!」と誰も彼もに言ってもらえるヘテロが、うらやましい。

誰も、「そう⋯⋯。」って顔を曇らせたり、「ええっ!?」って、「身の程知らずが!」って顔をしたり、絶対しない。

そういうことを、「しちゃいけないことだ」って、全ての人々から思われている。


うらやましくて、たまらない。



ヘテロの人が、うらやましい。





ほんとうに、うらやましい。






posted by ひろみ at 18:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年02月25日

「わたし」は、「わたし達」なのかもしれない



最初は一つだった細胞が、分裂に分裂を繰り返して何億個と増えたとき、「胎児」になる。
一つの細胞では、「人間」と呼ばれない。(生命倫理の世界では、論議がある。)

一個の脳細胞では、多分いまの私の意識はうまれないだろう。

脳細胞がいっぱいあって、いまのわたしという意識が在る。

「わたし」をかたちづくる細胞は、複数形なのだ。


じゃあ、「わたし」という意識は、実際は「わたし達」なんじゃないだろうか。


多重人格とか言われている「症状」の人たちは、単にその仕切りがほかの「普通」の人たちよりも、
クッキリしているだけなんじゃないだろうか。

「〇〇なキャラ」という使い方で定着した「キャラ」という言葉も、みんな、一人ひとりがそれぞれに抱えている、「わたし達」のうちの1人を指すのだろう。

その「キャラ」がステレオタイプ化されていることは、どう捉えればいいんだろう。


わたしは、わたし達である。

そのわたし達のうちの1人に、つらいものを、苦しいものを、負わせて押し付けてしまいながらここまで生きてきた。

いま、私は、必死で無視してきたその存在たちと、会話をしている。
ごめんね。つらかったね。助けてあげられなくて、ごめんね。助けてあげたかったよ。ほんとうに、つらかったね。怖かったね。苦しかったね。悔しかったね。助けて、あげたかったんだよ。でもできなかった

そうしているうち、それを続けているうち、少しずつ「わたし達」と話せるようになった。
わたし達は、一人ひとり、この「わたし達」を守るために、分節化しながら、それぞれの役割を負いながら、なんとかわたし達を生かそうと、生き残らせようと、いっしょに生きてきていた。

メインに表に浮かんでくる「わたし」は、その時々によってちがう。
分節化してるときもあるし、ぼんやりと、渾然一体に「わたし」を成しているときもある。

ひとつにもなるし、分節化もする。

いずれにしろ、1人でも多くの「わたし達」が、それぞれみんな楽に、しあわせに、生きられるようにしていきたい。
一部の「わたし達」だけじゃなくて、忘れられた、置き去りにされた、ずっと無視されてきた「わたし達」と、これから、少しずつでいいから、ちゃんと、向き合って生きていきたい。

いままで、無視してきて、ごめん。あなたがいることを、認める。あなたの気持ちを、話してほしい。
無視してきた立場で、虫がいいかもしれないけど。
これからは、少しずつ、前に出てきてほしいんだ。

その邪魔をすることは、もう、
これからは、やめるように気をつけるから。


「わたし達」が、前に出ることを、邪魔するのは、やめよう。



「わたし達」の、気持ちを聞こう。



そして、ゆっくりでいいから、寄り添っていこう。






posted by ひろみ at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

More 非モテのアダルトチルドレン本.

いやー、いいよなあ永田カビさんのさびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ -
さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ -

超勝手に親近感抱いてるんですが、(現在)恋人がいないAC本であるという点が、特に最高!いやほかにも最高なところありまくるんですがw
田房永子さんの本とかも、超最高で凄く助けられるし癒されているのですが、
恋人がね⋯⋯
パートナーの方がね⋯⋯
いらっしゃる話になると、「ああ⋯⋯;;」って泣きたくなるのよね。
特にパートナーとおせっくすなさっているんですねという話になると、羨望のあまり気が遠くなるんですよね。
ひがみですよ。そらもう。
ひがみますよ〜妬みますよ〜〜
呪いますよ!!
怖いわ!!!

彼女ほぴい!!!って発作的に叫びたくなりますよ!


More,
恋人いないアダルトチルドレン本!!!


posted by ひろみ at 04:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年02月13日

清水富美加さん。つらいことがあったなら、出家してもいいんじゃない?





つらいことがあって、どうしようもなく苦しいことがあって、今所属している集団・社会・コミュニティが、「自分を助けてくれない」と感じたら、神さまにこころを委ねるのも一つの手だろうよ。


「世」から逃れたいとき、神仏を頼って出家する。


これは、日本の古来よりの伝統だ。
『源氏物語』をはじめ、古典を読めば、いかにも是と頷けるだろう。

過酷な苦境をさまよった女性たちが、自分をモノ扱いする「世」から逃れるのに、
「出家」は、最も有用な自己救済の方法だった。

身分も保障され、迫り来るチンコも撥ね除けられ、「悲しいです。つらいです。この気持ちを私ひとりでは、抱えきれません」と、「世間」や「常識」から離れたところで訴えられる。
唯一の、セーフティネットだった。



よく勘違いする人がいるけど、
神さまを信じることは、「自分の頭で考えない」ことじゃないぜ?


神さまは、支配者でもなんでもない。

神さまを信じるということは、こころの中に一人、どんなときでも絶対に自分の味方になってくれるひとを棲みつかせることなんだよ。

神さまの奴隷になるんじゃない。


神さまこそが、奴隷なんだよ。



どんなひとでも、こころの中に、知らず知らずに神さまを飼っているはずだ。
解離性人格とか、最近言われている「分人」みたいなものだ。


神さまを信じるということは、
こころの中に一人、「どんなときでも絶対に味方になってくれる人格」を飼い、そのひとに寄り添ってもらいながら、自分が望むとおりに生きることです。


主体性の極みである。

「もうひとりのボク」、ってやつだね。



「神なんか信じる奴はバカだ。弱いやつだ。」という人は、自分が「強い」と思っているんだろうか。
自分は、「弱者ではない」と?


そういうひとほど、危険だ。


そういう人も、騙されたと思って、自分のなかに神さまを一匹、飼ってみたらどうだろう?
一匹と言わず、二匹でも三匹でも、なんなら八百万でも飼ってみたらいいかもよ。

いや、自分では認めていないけど、実はもうとっくに飼っているはずだ。
こころに語りかけてみなよ。

「つらいよ、苦しいよ。誰もわたしのことをわかってくれないよ。でも、あなただけは、わかってくれるでしょ?
どいつもこいつもバカで無神経で、全然わたしを思いやってくれないけど。
あなただけは、生まれたときから、ずっとわたしぼくおれを、見守ってくれているよね。
お願い、わかってよ。いま、凄くつらいんだよ。

お願い、

抱きしめてください⋯⋯







って。




posted by ひろみ at 23:18| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする