2017年05月20日

『日本一醜い親への手紙』、投稿した。



虐待された方から「親への手紙」を 公募中!


「日本一醜い親への手紙」に、投稿した。


採用されるかは分からないけど、勇気を出して投稿して、よかった。

「書こう」とする時点で、がくがく震えるような気持ちになってしまうんだ。

でも、書いた。そして、投稿した。



少しだけすっきり。







自分の人生を効率厨的に捉えると世界終われよと思うけど、

「これから」、何をより優先して掴んでいきたいかを考えると、効率厨というよりも、


「ほんとうにそれは、可能なのか?」(私の「労力」的にも、環境の可塑性的にも。)ということを、腹を据えて直視する必要に迫られる。


と感じる。



つかれたあ








***


パラサイト・ペアレンツがSNSとかやってたら私の個人情報とか垂れ流されそうだし、あいつらが機械オンチで良かったな〜と思うけど、

よく考えたら、
これからの世代のアダルトチルドレンは、子供の個人情報をSNSに垂れ流す毒親に苦しめられるんだろうか⋯⋯と怖いことを考える。

一緒にいるとき、一緒に旅行しているときにも延々とTwitterをし続ける(元)友達を、
その旅行の帰りに受・着信拒否して、切ったことがある。

しかし親がそれだと、荒寥たるものがあるな。
まあ私の糞親たちはSNSなぞやっていなくても荒寥たる大砂漠だったけども。


家の中に閉じ込められている子供が、スマホによって、「外」の世界に触れる機会が少しでも増えるのだから、
子供にインターネットは必要だ。

危険だって当然ある。
だが、「家」の中に監禁されているほど、危険なことはない。
ネットは、「家」から子供を連れ出す。クローゼットの外へ。



親権は、さっさと剥奪すべきだ。




***


キラキラしたブログなんて書けねえよ、なあ?



卵が無かったので、お好み焼きのツナギに天かす(揚げ玉)を多めに入れたら、お店で食べるような、香ばしいリッチなお好み焼きになった。

お好み焼きにおいて、天かすはこんなにも重要だったのか⋯⋯!

卵入れてた時よりも美味しかった。今度からは天かすを中心にしよう。
あと、あらかじめキャベツをレンジで温めてから混ぜたら、甘みが出て、火も早く通った。
お好み焼きは深淵である。




posted by ひろみ at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年05月14日

母の日を押し付けてくるスーパー、死ね


母の日をポップアップしてくるスーパーは死ね。
母の日を放送で連呼するスーパーは死ね。


サントクとLIFE、死ね。






わけもなく解離しているなと思ったら、「母の日」ポップアップに脅迫されていたよクソが。


「母の日」を、精神的被害で訴えたいねえ。


posted by ひろみ at 13:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

愚痴


あああああくそかったりぃ!!!!!!!
めんどくさ!!!!!
この世でもっとも茶番なことをマジ顔でやんなきゃいけないとかだっる!!!!!
働きたくない!とは完全に思うわけじゃないけどその前段階にこんなクソかったるいことしたくねええええええええええ!!!

やるしかねえか!
でも叫ばにゃやっとられんわ!!!
ベーシックインカムよこせよ!!!あと仇討ち権をな!!!!!!

わたしを虐めた奴は全員腹掻っ捌いてアスファルトにはらわたぶち撒けろ!
と威勢のいいこと書いてみようとして不思議に冷静になります。
熱くなろうとすると水を被せようとする「わたし達」がいるんですね。
でももうちょっと爆発したいですね。
原発くんもこんな気持ちなのかな。

こころからだるい。人と関わりたくない。
わたし達を黙らせている。抑圧している。今はそれを自覚しよう。
長渕剛を歌いたい⋯



***

ふう。終わってみればどんなことも容易く感じられる。

あのクソババアが私を脅し続けた成果が、この不必要な怯え、悲観だ。
子供の人生いびってないで、てめえの夫婦関係を見直せってんだよ。

馴れ合いと、失望と、妥協だけで夫婦関係を数十年間継続できる人たちは、
子供の見ている世界とは、まったく違う世界を見てるんだろうね。

終わってしまえばあっけない。全てが。

離婚だってしてしまえばあっけない、拍子抜けするほど気楽なもんじゃないかしら?
そんなことは、ホモセクシュアルの世迷言なのかなあ



***


考えてみると、熱くなってキレようものなら、その復讐にどんな恐ろしい一撃が返ってくるか分からない家で育ってきたんだものな。
キレても殺されないならキレることもできるかもしれないけど、
キレたら殺される危険のある家に監禁されて育つと、憤懣が溜まってもよっぽどのことがない限り、
あるいは「キレても安全だろう」と冷静に分析する理性(わたし達)が働いている時しか、「キレる」ことができなくなるんだ。

代わりに、私は抑鬱状態に陥る。
抑、鬱。という感じになる。遠い目をして、息を潜めて。


田房永子さんの『キレる私をやめたい』は超役に立つ本だ。

けど、その一点で、私とは違うなあと感じる。
私は、自分が手を上げようものなら、サイコパスの長兄に、一撃のもとに殺されるかもしれなかった。
誇張でなく。
だから私が爆発しそうになったら、瞬時に冷却水を掛ける役の「わたし達」が必要だったんだろう。

だからちょっと、「キレる」ことができる人が羨ましいとすら思ってしまうんだ。
ご本人たちは、ほんとうに苦しんでいるんだろうけども。


キレられるのも、泣けるのも、素晴らしいことだと思う。




posted by ひろみ at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年05月05日

「ブラジャーを娘に買ってあげない母」は、娘に性欲を抱いている。



根本的に、母親は娘に性欲を抱いている。


事実である。
そこらへんをはっきりと言明する専門家は非常に少ない。

だから、被害当事者が言ってやるしかない。



「娘が性的になることを嫌がる母」とは、処女厨の男である。


母親は、〈男〉である。


そこになんの矛盾もない。
〈母〉は、〈男〉である。

むしろ、



〈母〉を極めれば極めるほど、〈男〉化する。



ここらへんを読み違える人が多いから、被害者の娘(息子)たちが混乱させられるんだよなあ。


永田カビさんの本を読んで凄く励まされたのは、「娘が母に抱く性欲」を、誤魔化しなく、ご自身の表現ではっきりと描いてくれたことだった。
私だけじゃないんだ!と思いました。
私も、母親に性欲を抱いていたから。

今となれば、それが、「母親が自分に向けてきた性欲への、応答」でもあったことが、容易に認められる。


娘に「可愛い服」を着せたがる母親の心理。
それは

ロリコンの誘拐犯が、少女に「自分好みの服」を着せようとする欲望とイコールである。


母親は、少女誘拐犯である。


少女を所有しているという征服感に、恍惚としている性欲主体。
それが、母親である。


それを認めてしまったら、ことごとくこの国の〈母性愛幻想〉は崩壊してしまうわな。
そら認められんわけだわ。



誰も言わないならはっきり言おう。


母親は、娘を犯したくてたまらないのだ。


だから、娘が他の〈男〉にセックスされるのを想像して、憎悪を噴き上がらせる。


母親とは、

独占欲と支配欲に満ちた、近親姦性虐待加害者なのである。




posted by ひろみ at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

逆接は、あっけなく順接に変態する。

マッキーがあれだけホモセクシュアリティを揶揄され、ネタにされるのは、
凄まじい才能があるからだ。


「ホモなのに」そんなに売れるとか、凄いね(笑)。

「ホモなのに」こんな素敵な歌つくれるの、凄いね(笑)。

「ホモなのに」こんなに大人気になるの、凄いね(笑)。


「ホモなのに」は、恒常化すると、やがて「ホモだから」に変わる。


「ホモだから」そんなに売れるんだね!

「ホモだから」こんなに素敵な歌つくれるんだね!

「ホモだから」こんなに大人気になるんだね!


逆接は、こんなにもあっけなく、順接に変態する。


そんなふうに言うひとは、きっと、


「ヘテロだから」、たいした才能無いんですね(笑)。

「ヘテロだから」、つまらん作品しかつくれないんですね(笑)。

「ヘテロだから」、人気が出ないんですね(笑)。


「ヘテロなら」、仕方ないですよ(笑)。
ホモは才能に溢れてて当然だけど、「ヘテロに」そんなことを要求するのは、酷ってものですよね!



ほんとは、


「ヘテロなのに」、たいした才能ないんですね(笑)。


と言われるのが、怖いんだろう?


正直に言えよ。



この場合の「ホモ」は、「子供」にも応用できる。
「女性」にも。


「子供なのに」こんなに売れるとか、凄いね(笑)。

「子供なのに」こんな演技できるの、凄いね(笑)。

「子供だから」、チヤホヤされてるんだろう?

「子供だから」、そんなに勉強できるんだろ?


「女性なのに」そんなに稼げるなんて、凄いね(笑)。

「女性なのに」理数科学の才能あるなんて、凄いね(笑)。

「女だから」、売れるんだろう?

「女だから」、そんな口がきけるんだな。




すべてシスヘテロ壮年男性が「標準に」他の人たちよりも優れているという「事実」を、
断固として保守するために編み出されたロジックである。


このロジックを使う女性も、当然いる。
ホモも。子供も。

何がどうとか、自分を社会に位置づける「ことば」を探したら、こんなものがまず迫り出してきてしまうんだろう。

わたしもそうだ。



だからなんなんでしょう?


だからどうということもない。


ただ、人は、自分を慰める「ことば」を欲しがるんだろう。


わたしを慰めることばは、どこにあるんだろうか?
この、醒めてしまったわたしを。


「だから」も、「なのに」も、疲れた。


「だから」からも、「なのに」からも、逃れたい。


でも、やっぱり「だから」が欲しい。
どれだけ「だから」が欲しいか。
「だから」、わたしはあんなに酷く殴られたのか。
あの酷い、怖ろしい、意味のわからない衝撃は、「だから」なのか。


「なのに」で悔しさを訴えたい。
「なのに」で、辱しめられてきた。
「なのに」でどれだけ虐められてきたか。
「なのに」、どうして誰もわたしを助けてくれなかったんだ!!!


それで、ほかのひとに、分かってほしい。わたしの気持ちを。
どれだけ傷ついているか。どれだけ裏切られてきたか。
どれだけこの世界に、「家族」に苦しめられてきたか。


わかってほしい。



わかってください。



お願いです。



わかってください




posted by ひろみ at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

「子供が自分よりも不幸でいないと、幸せと感じられない」人たち。それがお父さんとお母さんだ。




お父さんとお母さんは、「子供が自分よりも不幸でいないと、幸せと感じられない」人たちなんだ。


なんでかわかんないけど、そう思う。

子供限定なのか?
そうは限らないと思う。
とにかく、「自分よりも不幸だ」と思える人が増えれば増えるほど、「嬉しい」と感じる人たちなんだ。

ただ、それが「子供」だと、さらに違う。


「子供」だけは、何があっても、絶対に自分よりも幸せにならないで欲しい。
なってはならない。絶対に、許さない。

子供が、自分よりも幸せになったら、死ぬ。

子供だけは、何があっても、自分よりも、不幸せでいるべきである。
自分よりも幸せになる子供は、生きていく資格がない。
自分よりも幸せになる子供は、死ね。


そんなところだろう。あの人たちの心底は。



お母さんとお父さんは、同じことを、自分の「お母さんとお父さん」に要求されていたんだろう。
私の「祖父」と「祖母」に。

そうして、それを守った。
今も守っている。きっと。


自分がさせられたのだから、「自分の子供も」。同じことをさせられて然るべきである。
わたしはお父さんとお母さんよりも幸せにならないように頑張ってきたんだから、次はお前の番だ。
不幸せになれと要求されてきたわたしに、それよりも不幸になることで、わたしに「幸せ」を感じさせるのがお前の義務だ。
それが、子供の義務だ。

お前は、わたしよりも幸せになってはならない。


お父さんとお母さんよりも幸せになることを、禁ず。
その掟を守るには。「守った上で自分が幸せになる」には。


お父さんとお母さんを、幸せにしてやるしかない。


だが、不可能である。


親たちは、そもそも幸せになろうとはしていない。
なぜなら。
親たちも、「(自分の)お父さんとお母さんよりも、不幸せでいなければいけない。」
それを破れば、殺される。
そう信じ込んでいる。

「自分は、不幸せでいなければいけない。」
そう信じ込んでいる人を、他者が「幸せにしてあげよう」とすれば、必ず徒労に終わる。
「自分は、不幸せでいなければ、殺される。」
そう思い込んでいる人を幸せにしてやることは、神にも不可能だ。


つまり、お父さんとお母さんは、死んでも幸せにはならないのである。


どんなに私が頑張っても、お父さんとお母さんを幸せには、できない。


天地がひっくり返っても、幸せにはなれない人たち。
「不幸せでい続けることでしか、自分は幸せになれない」と信じ込んでいる。

狂気としか言いようがない。
「不幸せでい続けることでしか、幸せになれない。」
矛盾に気づいていない。恐ろしい。無限ループである。


正確に言えば、


「不幸せでい続けなければ、殺される。」


そう思い込んでいるわけだ。
どっちにせよ、幸せにはなれない。





自分で、自分の生を変える気のない人に、「幸せだ」と感じさせようとするには、その人よりも「不幸だ」と措定されたモノを用意しないと、無理だ。


自らの内から湧き出る、
安心だ。
安全だ。
自分は、誰にも「必要」とされなくても、何の役割も演じなくとも、誰にも「交換条件」を提示しなくても、いくらでも、無限に、生きていっていいんだ。
生き続けていって、いいんだ!


という幸せを、そもそも求めようとしていない人にとって、

「幸せ」とは、「自分よりも不幸な(とされる)人がいる」状態にほかならない。
「他者を踏み台にして見下す」感覚以外に、かれらにとって、「幸せ」と呼べるものが無い。
相対主義の、「幸せ」である。



どこかで、この因縁を断ち切ってきたひとがいる。
この地獄の連鎖を、血反吐を吐く思いで、自分のあとの人たちにはさせまいと、のたうち回りながら、「自分の」幸せを掴もうと生きてきた人たちがいる。
相対主義ではない、「わたしの」望みとは何かを、「わたしの」幸せとは何かを、ズタズタのこころを抱えて、血と涙を流しながら模索していった人たちがいる。

その人たちが、地獄の因縁を断ち切って生きてきた。
その道筋のあとにこの世界がある。


地獄の連鎖を子供に要求してきた人たちと、
連鎖を断ち切って、「わたしの」望む生を生きようと、選び続けてきた人たちがいる。




わたしは、お父さんとお母さんが望むとおりに、「わたしは、お父さんとお母さんよりも幸せになってはいけない。」と思い込みながら生きてきた気がする。

「お父さんとお母さんよりも私が幸せになりそうになったら、自分が好きなことやしたいことを我慢して、
『綺麗だ』とか、『美味しい』とか、『気持ちいい』とか、『楽しい』という感覚も、できるだけ、感じないようにしなければいけない。感じそうになったら、セーブしないといけない。ブレーキをかけなきゃいけない。」

と、深く、深く、呪いのメッセージを呑み込みながら、生きないように、生きてきた。

生きないように。
生きないように。

生きないように、自分を呪いながら。

だって、ほかの人を幸せにすることを主目的にいきていったら、「生きない」ことになるんじゃないか?
生きることはできないよな。
それ、生きていくって言わないよ。



私は、お父さんとお母さんが、「自分よりも不幸せな人」を見下さないと、幸せと感じられない人たちであることに、だんだんと気づいてきた。

すると、どういうわけか、見るもの聞くもの、食べるもの、全てが、これまでよりも、感動が減って感じられてきた。アニメも、映画も、美味しい食べ物も、大好きなゲームも。

以前はあんなに熱狂して楽しむことができたのに、今は、以前よりもずっと、何を見ても聞いても、感じない。感動しない。
味気なくってしょうがない。

どうしたんだ、私?と思っていたけど、もしかしたら、これは⋯⋯


わたし、今、
「お父さんとお母さんは色々なものを馬鹿にしたり、見下したりして。他人の目を気にせずに自分の感じるこころを大切にして、『素敵だ』とか『面白い』とか、素直に感じて楽しめない人たちだから、お父さんとお母さんが不幸せを感じないように、私はもっと色んなものを馬鹿にして、素敵だとか楽しいとか面白いとか美味しいとか感じないようにしなければいけない。感じない、つまらない、喜びが無い人間になろうとしないといけない。」
と思ってやしないか?

お父さんとお母さんは、エッチする喜びを、自分の感覚を大切にして、じぶんの身体に触れる喜びを、お互いを(自分を)たいせつにして、気持ちのいいことを心から許して、自分に認めて、よかったねえ、気持ちよかったねえって、自分といっしょに喜んであげる幸せを禁じている人だから、
「気持ちいい」と感じることを辱める、悪だと思い込んでいる、迷妄に囚われきった人だから、
私も自分で自分を悦ぶ感覚を、封じよう、忘れよう、無かったことにしようと、してないか?

まずいぞ、それ。もったいないよ!

気持ちいいって感じて、いいんだよ。
楽しいことを、気持ちいいことを、めいっぱい感じまくって、良いんだよ!

私、お父さんとお母さんに見習って、物事を馬鹿にしたり見下したりすることでしか喜びを感じられない人になろうと、感じる気持ちを、楽しむ気持ちを、感動するこころのちからを棄てようとしてきたんじゃないか!?


やばいぞ、私!


目を覚ませ、わたしよ!!


生きていいんだ、わたしよ!


わたしは、わたし達は、お父さんとお母さんよりも、幸せになっていいんだ。


あの人たちの押し付ける「幸せ」でなく、わたしが望む生を、生きて良い。



「わたし達」が、望む生を、生きていい。好い。善い。良い。佳い。



「わたし達」の一人ひとりが、望むことを、望んでいいんだよ。



生きたい。
生きるのを、やめたい。
いなくなってしまいたい。



その、どの望みも、望んでいこう。



望んでいこう。すべてを



posted by ひろみ at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

お母さんは、私をレイプした。



私は基本的に、体毛を剃らない。(まん毛は短く切る。モサモサするし)
私は基本的に、じぶんの身体が好きだからだ。
コンプレックスのある部分があっても、基本、自分の身体が好きだ。

世の人が、「ムダ毛」などと言って、目の敵のように自身の体毛を除去しようとするのに、悲しい気持ちがする。
毛が、かわいそうだと思う。
毛は、身体を守るために(少なくともその機能をもって)生えてきてくれているのに、「無駄だ」「醜い」などと言って、邪魔者扱いするのが、悲しい。

もちろん余計なお世話である。
ただ、そういう人たちは、高確率で他者の体毛をも忌み嫌い、
あろうことには「剃れ」、「隠せ」などと言う輩さえいるではないか!

私は、自分を守ってくれる毛を、愛しいと思う。
家族の、誰も、私を守ってくれなかったけど
私の身体は、私が傷つくたびに、いつもいつも私の身体を修復してくれる。
当たり前のように。かさぶたを作って、治してくれた。
そのことが、私は嬉しかった。
この世でただ、私の身体だけが、私が生き続けていってほしいと望んでくれた。
言葉なきメッセージで。しかし、明瞭に、私を助けてくれた。

口だけで味方ヅラする、卑怯者のコウモリ野郎の父親とは、大違いだった。


だから、私は、口のとこの髭も剃らなかった。
鏡で見ると、たしかにちょっと奇妙な感じがしたけど、これも偏見、刷り込みによるものなんだろう。
トルストイの小説に、鼻の下の「口髭がとてもチャーミングな美女」という表現があったし(たしか『戦争と平和』)、『千夜一夜物語』にもあったような⋯⋯(うろ覚え)?

ここの毛も、ごみが気管に入るのを防いでくれるし、あると風邪をひきづらくなるそうなのだ。
なら、なおさら剃る必要はない。

私には、たいせつな毛だ。



お母さんは、私をレイプした。
私の肉体を、こころを、強姦した。


ちょっときついので続きは後日書こう
posted by ひろみ at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

「好き」と、「好きになろうと頑張っている」は、全然違う。



「好き」と、「好きになろうと頑張っている」は、全然違う。


私、お母さんを好きになろうとしてた。
でも、「私は、お母さんが好き」と言おうとしたら、「お母さんが」で止まった。
それ以上は、息が詰まって言えなかった。身体が、言うのを拒否していた。
胸が止まって、息が詰まって、横隔膜が硬直した。

同じように、「私は、お父さんが好き」と言おうとしたら、息が詰まって言えなかった。
身体が、言うのを拒否していた。


私、「お母さんが好きだよ」と、必死にお母さんに伝えようとしてた。
「この家族が好きだよ」って。
私は、「お父さんが好きだよ」と、必死にお父さんに伝えようとしてた。

でも、無理だった。
どんなに我慢しても、自分に嘘をついても、好きじゃない人を、「好き」と言うことは、できなかった。

嘘をつくと、身体にくるんだ。

好きでもない人を、必死に、好きになろうとしてた。
一生懸命に。

そのせいで、私の身体はボロボロになっていた。
嘘をつくには、体力が要るから。

好きじゃない人を「好きだ」と嘘をつき続けるのは、『嘘をつく筋肉』みたいなのを全身全霊に強張らせて、呼吸までガチガチに統制しないといけない。
そんなことを生まれてすぐに、二十数年間も毎日、毎晩休みなく続けていたら、身体がおかしくなるのは当たり前だ。

お母さんとお父さんと関わることを想像するだけで、息が浅くなって、胸が重くなって、ずーんと世界が暗くなって見えるのは、おかしいことでも、なんでもないよ。


私は、お母さんを好きじゃない。
私は、お父さんを好きじゃない。

それを言うことに、自分に認めることに、怖ろしい罪悪感⋯⋯躊躇う気持ち?を抱いていた。
「私は、お母さんが好きじゃありません。」
「私は、お父さんが好きじゃありません。」

それを知られたが最後、わたし達は殺される。
殺されるんだ。

じっさいに、殺された。


今もちょっと怖い気持ちがする。
でも、これは駄目なことじゃないよね。


私はお母さんが好きじゃない、いいよね。


私はお父さんが好きじゃない、いいよね。



私はお母さんとお父さんが好きじゃない。
それは、いいことだよ。


「いいことだ」って、みんなに言って欲しい。


私は、お母さんが好きじゃない。

私は、お父さんが好きじゃない。


I don't like my mother. I don't like my father.

I don't love my mother. I don't love my father.

It's fine!


posted by ひろみ at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

生きたい気持ちと、生きたくない気持ちが拮抗している。



生きたいわたしと、生きたくないわたしが共に喘いでいる。

わたしが「社会」と関わろうとすればするほど、
「お前は『本来』女であるのに、『特別扱い』してやるのだから、手続きを、これでもかと煩雑にしてやる。」と言われる。
システムが、私に言い続ける。

恐ろしい。めんどくさい。かったるい。気怠い。怖い。

私には当たり前のことで、てんてこ舞いである。
個が、個を生きるだけで、猛烈に泡を食いだすのは、システムの側に強度が足りないのである。


この恐ろしさは、9割が、お父さんとお母さんが植え付けたものである。

お母さんとお父さんが、体制なのである。

お母さんとお父さんは、システムである。


「お母さんとお父さん」は、体制と寝ている。


体制は、「お母さんとお父さん」と寝ている。



安倍総理に始まったことではない。


私たちのことごとく、「お母さんとお父さん」と寝させられているのである。

犯されている。


日本は、近親姦国家である。



日本は、近親姦性虐待国家である。



posted by ひろみ at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

私がたとえ、ちんこの生えた身体に産まれたとしても。



この世に産まれて、最初に〈男〉の性を押し付けられたとしても。
わたしは、幸せになりたい。

幸せに、生きたい。


なにかの、自分のちからではどうにもできないことで、不幸せな生に、固定されたくない。

だから、(というか多分)そのために男性学に惹かれてきたんだと思う。

逆に、フェミニズムは恐かった。
自分の、根本の問題を抉り出されそうで、私の命が根っこから裏ぐり返って、壊れて潰れて死んでしまいそうだったから、私はフェミニズムを避けていた。

そのぶん、男性学は、ある程度他者性があったから、
同時に、自分の問題でも深くあったから、まずは自分にできそうなことからと、男性学を独学していたんだと思う。


男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 -
男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 -

『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』は、おっそろしい本だ。

いまでもまだ読みきれてない。
フェミニズムに触れた時と同じくらい、あるいはそれ以上に、わたしの天地がひっくり返って、地面がグラグラに崩れてしまう感じがしていたからだ。

でも、私は、この本に出会いたくて出会ったんだ。
〈女〉に産まれても、〈男〉に産まれても、幸せになりたい。

幸せに、生きたい。

幸せに生きようとすることが、世界を変えることと不即不離になってしまっている(しまっている、としか言いようがない)、私たちが。


生きるなら、世界を変えよう。



posted by ひろみ at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年04月03日

「自分を大切に」なんか、できるか。



「自分を大切に」なんか、できるか。


「自分を大切に」しようとしたら、殺される家に育ってきたんだ。


「大切に」してほしいと、泣いて望んだら、「馬鹿みたぁ〜いwww」と罵倒される家に、育ってきたんだ。


「自分を大切に」しようとしたら、生き残れない家に、家族に監禁されてきたんだ。


「自分を大切に」なんか、できるか。
そんなことを言える時点で、問題の9割は存在していないんだ。
わたしに、「自分を大切に」なんて、できっこない。
できるかよ。したいけどさ。

「自分を大切に」できないんなら、ほかの人に、自分を大切に扱ってもらおう。
自分を大切に扱ってくれる人を探して、求めて、できる限りその人といる時間を増やすこと。
至近距離にいなくても、その人のけはいを、生命を、感じられるところに。


弱くって、いいんだ。
「自分を大切に」できなくて、いいんだ。
そういうときこそ、他のひとに、助けを求めようよ。
助けを求めてる時点で、「自分を大切に」できてるのかもしれないけど。
定義なんかなんだっていいんだ。
わたしを、大切に扱ってくれるひとといる時間を、増やそう。
自分がなにかをしようと思っても「できない」と感じることを、責めるのはやめようよ。

「できない」ように仕立て上げた調教師がいることを、思い出せ。
「できない」ことを望んで、未来永劫自由になれないように、望んで調教した奴隷主人がいることを、覚えておけ。

「自分を大切に」なんか、できるか。
「今の」わたしに。


「自分を大切に」なんか、できるか!



「自分を大切に」なんか、できるか!!!



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2017年03月31日

「ありがとう」を辞めよう。




自分の力ではどうにもできないことを、他者が行うのは、お節介である。


それがどんなに、本人にとって豊かなことであっても。


他者のお節介を、
嬉しいと感じるか、悲しいと感じるかは、
完全に、本人の自由である。


「ありがとう」は媚態だ。


ほんとうに相手の行為を嬉しいと感じるなら、「嬉しいよ。」と言えばいい。


「ありがとう」を、やめようよ。


嬉しかったら、「嬉しい。」と言おう。
嬉しくなかったら、「嬉しくない。」と言おう。
「有り難い」かどうかなんて、どうでもいいだろ?


お節介をしておいて、挙句に「ありがとう」を要求する奴は、地雷野郎である。
即刻、距離を置いたほうがよい。


生んで、感謝を要求するやつは、地雷です。


自分が生まれて、嬉しいか?

私は、嬉しいと感じない。
ただ、生きているから生きているだけだ。
生きていることを、悲しいとすら思うのに。生まれなければよかった。そう、同時に思いながら生きているのに。


私は、現象だ。

欲望する現象だ。

傷つき、悲しみを感じる現象だ。


現象に「感謝しろ」と要求するような人には、栄養を摂り、十分な休養をとるように勧めよう。
死なねば治らぬかもしれないが、そういうひともまた現象なんだ。


厄介な現象が、この世にはあるものだ⋯



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2017年03月27日

『日本一醜い親への手紙』は良著だ。



『日本一醜い親への手紙』は良著だ。

読んで、これほどぐらぐら揺さぶられた、そして救われた本があるだろうか。

日本一醜い親への手紙 -
日本一醜い親への手紙 -


わたしは一人じゃないんだ、って思った。
絶望の話ばかりなのに、光明が差して覚えた。
ほんとうに、光明そのものだった。


グループカウンセリングや、自助グループに行く勇気が出ないひとは、この本を読むと良いと思う。
擬似グループカウンセリングに参加している気分だった。
アダルトチルドレンの、当事者の声が、生々しく身体に響いてきた。

ひとには言ってはいけないのだと思っていたことが、わたしの代わりに言ってくれるひとがいた!
頭がガンガンして、目が回るほど、わたしの胸を解放してくれた。
この本を出してくれて、ほんとうによかったと思った。今も深く思う。


虐待された方から「親への手紙」を 公募中!


その『手紙』の続編を、編纂者の今一生さんが発行しようと企てているらしい。
クラウドファンディングで、本を出すためのお金を公募しているそうです。

また、手紙も募集しているようです。



わたしも出そうかなあ。

この胸の中の塊を、引きずり出して太陽のもとに晒したい。
きっとてらてらと血膿みに濡れ、ぎらぎら光っているだろう。

それを、みんなに見えるように、光を当てたいんだ。

見せたいね。見せよう。
みんなに、このカタマリを見せようじゃないか。

お互いの、「これ」を見せ合ったら、きっと「わたしだけじゃないんだ」とこころから泣けるはずだ。
そして、わらえるはずだ。

肩も安らいで、胸も安らいで、スッキリとした胸の穴を感じられるはずだ。


この本を、出そう。





追記:
今読み返してるけど、泣けて泣けてしょうがない。
このごろ、私は親を「許そう」としてしまっていたなあ。
許さなくていいのにね。他人事だったら「そんなの絶対許しちゃダメだよ!」とか「許さなくていいよ!」って思うのに、
自分のことだと「お母さんも大変だったんだ」とか「お父さんは可哀想な人なんだ」とか、「わたし達」に言い聞かせてしまう。

そんなこと聞かされた「わたし達」の気持ちになってみろってんだよな。

身体を掻き毟るぐらい、お母さんに言われたことが、されたことが、されなかったことが私の内がわから抉りはてているのに、「お母さんとお父さんを許してあげよう」だって?

そりゃあないだろう、わたしよ。

この、身体を掻き毟っている「わたし達」の声を聞こうよ。

ふざけるな!寂しい!!嫌だ!って叫んでるよ。

わたしを空っぽにするのはやめてよ。
posted by ひろみ at 04:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月22日

親に会うことを思うと解離する

今日(昨日)、母親に会ってきた。
必要な書類にサインをしてもらうために。

丸一年ぶりだった。

1週間ほど前、書類に親のサインが必要だと知った時、ほんのすこし気が遠くなる思いがして、その思いを追いやった。
考えたくないので、考えるのを休むことにした。こういうとき休むのは、とても大事だ。
いやだ⋯いやだ⋯という思いを背中の奥に押しやって、ぼんやりと解離しながら生きてきた。

だが、『この世界の片隅に』を劇場で観て、私と親は別々の存在であることに気づいた。
なんでかはめんどくさいので気が向いたら説明する。
親たちは、「他人」だった。そのことを、ようやく身体の中心にストンと降ろせた気がする。
今まで、私は、親が他人だと気づいていなかったんだ。

そのお蔭で、母と会う覚悟ができた。「できるな」と思った。

そして、会ってきた。
でも、朝からすうっと気が遠くなっていた。視界が、画面を観ているような感じ。私というモビルスーツに乗り込んでいる感じ。

私は、親と会うことを想像するだけで、こんなに気が遠くなるのか。あの地獄の家に向かっていると、見慣れた、一年ぶりの景色が、だがどこか異世界に見えた。

こんなにも気が遠くなる自分にこころのなかで笑いながら、「だいじょうぶ。サインをさせたら、すぐに出よう。帰ろう。」とわたしに語りかけていた。
わたし達がいるから、心強い。わたしは、わたし達と好い関係を築きあげつつあることを感じて、嬉しくなった。でもまだまだ、これからなんだろう。まだまだ、眠らされて、押し潰されて、抑圧されているわたし達がいる。そのわたし達と向き合っていくのは、これからの課題だ。

久しぶりに入った家はずいぶん狭く感じられた。ここにいた時は、「それなりに寛げる、いい家じゃないか」と思っていたのに。

母は、窺うような、及び腰の、少しびくびくしているような態度だった。

実は、とんでもなく無神経な、あいも変わらず懲りず全く変化ない態度を取られるかと思って、そうだったらどうしようと思って、物凄く心細い気持ちでいたのだ。

でも、一目見て、「ああ、びくついているな」と思った。

悲しいけど、僅かに安堵した。

この一年、事務的な内容のメール以外は一切無視し続けてきた甲斐があった。
電話は一切出なかった。声を聞きたくないからだ。

父は気持ち悪いメールを送ってきたので受信拒否・着信拒否した。
すると用件をPCメールにも送ってきたので拒否フィルタに加えた。ゴミ箱を恐る恐る見ることがあるが、もう来ていないようだ。希望。

私も母もお互い探り探りの態度でぎこちない会話をした。書類にサインをしてもらって、家族の僅かな近況を聞き、こちらの情況を簡潔に伝えると、幾らかの本をもと自分がいた部屋から持ち出し、若干の手土産を受け取って、立ったまま湯呑みの茶を7割ほど飲み、流しに置いて、「では」と辞して家を出た。

上出来だった。空は雨模様で、灰色、ねずみ色だった。青空でなくてよかったと思った。私の心にそぐわない色をされていたら、嫌だ。

道中、ほっとしたような、悲しいような、何かをぐっと我慢している感じの胸で、景色をぼんやりと見ながら電車に乗って、私の家に帰った。泣きそうだった。実際ふた粒ほど涙が流れた。最近は、通行人に涙を見られてもいいやとある程度思えるようになってきた。いいことだ。

回転寿司に寄って、美味しく食べられた。でも、どこか解離している。胸の奥の筋肉がギチギチ固まっている感じ。
泣きそうで、泣かないように、一生懸命抑え込んでいるのだ。意識してはいないつもりだけど、全身が、全力を使って押さえ込んでいる。
それだけ、わたしには、重労働だったのだろう。
他人事みたいに書いている。まだ解離している証拠である。
早く感じるこころが戻ってきてほしい。
いまは、感じないことよりも、痛くても感じることの方が、わたしには、嬉しいことだ。
感じていいんだよ。
もううちに戻ってきたんだ。いっぱい、感じていいんだよ。こう書いていたら、胸の奥が緩んで、涙が出てきた。少し、解放された感覚。
やっぱり、こうして、書くことは、わたし達を解放することなんだ。
わたしがわたし達に書いて、同時にわたし達が読んでくれている。

もっといっぱい書こう。胸の底から、いっぱい感じていいんだよ。
感じていいよ。だいじょうぶ。

もう、ここにはお母さんはいないよ。

よかったあ

よかった

ほんとうに、よかった

お母さんは、いないよ。だいじょうぶ。怖かったねえ。

ほんとうに、こわかったねえ。
こわかった。
こわかった。

ほんと、こわかったよ、わたし

わたしは、ほんとうに、こわかった。


こわかった⋯

posted by ひろみ at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2017年03月19日

わたしは、おんなのひとに触れ、触れられたい。

なんか唐突に思ったんだけど、

母以外のおんなのひとに触れたい。
服の上からではなく、肌で。

一度、触れたことがある。でも童貞である。段階はあるんや。
童貞だけど、そのときの体験は素敵なものであった。

わたしは、性経験の有無や多寡でひとを値踏みするやつが、大嫌いだ。
グロテスクで、品性下劣だと思う。

でも、ひととの関わりの体験レパートリーを増やすことは、じぶんを豊かにすると思う。
特に、私のような、そもそも人生のはじまりから人肌を奪われていたひとにとって、安心できるかたちで他者の肌に触れ、触れてもらうことは、とても満たされる体験になるだろう。

自分のおっぱいをほんのりと握ることに加えて、他者の肌に触れる体験を重ねることは、きっと私を楽しく、人生の喜びをひとつ増やすことになるはずである。

自分の欲望を表現することの難しさを、ためらいを、羞恥を、植えつけたのもやはり加害者たちだ。
嬉し恥ずかしいあの「きいてもらった」喜びを、馬鹿にして、嘲笑して、辱しめた。

でも、あの人たちは、「他人」なんだなあ。
すっかり勘違いしていた。
お母さんは、他人なんだ。
お父さんは、他人なんだ。
私と、sheは別の人間なんだ。
私と、heは別の人間なんだ。
繋がった、一つのカタマリのように、私も勘違いしていたんだ。

わたし、勘違いしてた。

わたしは、「家族」の一部じゃ、なかったんだ。

わたしが罪悪感を抱いていたのは、わたしがおんなのひととおせっくすしたら、「家族」もホモセックスをしたことになると勘違いしていたんだ。
家族も「変態レズ野郎」とのレッテルを貼られることになると、「わたしも」勘違いしていたんだ。
まあそんな差別規範を私にねじ込んで、刷り込んで、植えつけたのは、「家族」たちだがな。
勝手に怯えて。怯えていたのは、わたしなのに。そうですか、そんなに嫌なら勘当すればいいじゃないですか。お前らが世間様と寝続けたいなら、勝手にしろよ。私を、切ればいい。汚れのついた部品になって、残念だったね。私の学歴と、私の性は、切り離せませんよ。
私という便利グッズから、私のセクシュアリティは、切り離せませんよ。
残念だったね。
これからも、かれらは、かれらのせっまい「世間」の中で、私の学歴とか研究成果とかのパーソナルデータを、知り合いの奥様方とか、会社人、取引先の相手とかとの「社交」のなかで、かれらの「格」を上げるマウンティング道具として、使い続けるんだろうな。
でも、「あら、じゃあ、旦那さんはいるの?」とかいった質問を向けられたら、グッと詰まるんだろうな。
でも、「いえ〜結婚するつもりはないみたいでね〜」とか誤魔化すんだろうよ。

一生やってろ。お前らの中で。




そういうわけで。


わたしは、「わたし」に向けられる差別を心配してりゃいいのさ。


「家族」って、他人の集まりを意味しているんだよ。

そういうことに、ぼんやりしてたら、気づかずに生きてしまう。
こういうこと、学校で教えてくれたらよかったのに。


涙がもっと、軽やかに、柔らかに、のびのびと流れ出しますように。

せきとめることもなく、ゆるやかに溢れ出る、豊かな川に


いつかリラックスして、わたしが望む、すてきな相手と、肌を重ねられますように。
わたしの望みは、どんなことでも、望んでいいんだ。


わたしの世界で、わたしの望みは、どこまでも、好い。


どこへ行っても、わたしの望みは、活きていきつづける。


わたし達は、みんなで、生きていく。




posted by ひろみ at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする